その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

共食相手も上司でした

部屋に戻ると、静かな空間が少しだけ違って感じられた。

(……楽しかったな)

靴を脱ぎ、バッグを置いて、麻里子は浴室へ向かった。少し濡れた髪の感触が、頬にひやりと触れた。

こんなふうに笑って、誰かと過ごした時間が、こんなに心地よかったなんて。まるで初めて知るような感覚だった。

(デートって……こんなに楽しいものなんだ)

思わず頬がゆるみかけて—それから、ふと自分の「経験値のなさ」と年齢を思い出し、麻里子は小さく苦笑した。

恋愛らしい恋愛なんて、してこなかった。

高校のとき、手をつないだだけの淡い関係。触れるだけのキス。名前を呼ばれるだけで胸が高鳴った、そんな日々。

そのあと、一度だけ本気で恋をしたのは大学生の頃だった。サークルの先輩に片思いをして、勇気を出して気持ちを伝えた。

けれど—。

彼が友人に語っていた本音を耳にしてしまった。からかい半分、面白がるような調子で。

「マジかよ、あの子か……なんか、真面目すぎてつまんなそう」

たったそれだけの言葉で、恋心は音を立てて砕けた。

それから麻里子は、恋を遠ざけるようになった。社会人になって、何人かの男性から声をかけられたけれど、二度、三度会ううちに、どちらからともなく離れていくのが常だった。

自分が何を望んでいるのか、わからなくなっていた。

そんなことを、二回目のシャワーを浴びながら思い出していた。

熱い湯に包まれながら、目を閉じる。流れる水音の奥に、遠い昔の記憶がひっそりと沈んでいく。

それでも....

今日は、少しだけ違った。

ほんの少しだけ、心の奥がほぐれていた。



ぴったり一時間後。インターホンが鳴った。

(本当に……来た)

麻里子がそっと玄関を開けると、手にいくつかの袋を持った貴之が立っていた。

「ありがとうございます。ここで受け取りますので……」

そう言って荷物を受け取ろうとした麻里子のそばを、貴之は当然のようにすり抜けて、靴を脱ぎ、台所へと向かう。

「えっ、ちょ、貴之さん……!」

慌てて麻里子もあとを追う。貴之は手際よく袋を開けて、パンや野菜をカウンターに並べていく。

「……あの、どうしてここが私の部屋だって、わかったんですか?」

「住所くらい、知ってる」

「それって……職権乱用じゃないですか?」

「そうと言えばそうかもしれないが——」

と、貴之は野菜の袋を手渡しながら、さらりと言う。

「俺は恋人の部屋に来ただけだ」

「……恋人? 誰と誰が?」

麻里子の問いに、貴之は当然のように答えた。

「麻里子と俺。今日はデートだったろ?」

麻里子は呆然としながらも、言われた通り冷蔵庫に野菜をしまい始める。そんな彼女の背中を、貴之はしばらく黙って見つめていた。

すべてをしまい終えると、その肩をそっと抱き寄せられた。

「……私と貴之さんが、恋人? そんなこと、あるわけ…」

そう口にしようとした瞬間、麻里子の唇は貴之のそれにふさがれた。

今度のキスは、車の中で交わしたものとはまるで違う。

静かに触れるだけのそれではなく、角度を変えながら、幾度も幾度も、麻里子の唇を貪るように求めてくる。

(こんな……キス、知らない)

身体の奥がじんわりと熱くなり、息がうまくできなくなる頃、ようやく唇が離れた。

貴之はそのまま麻里子をしっかりと抱きしめ、見下ろして言った。

「敬語をやめろって、言ったよな」

「……っ」

「お前はよっぽど、俺に罰を与えてほしかったんだな」

にやりと笑うその顔に、麻里子の心臓が跳ね上がる。

どうしてこんなに、ずるいんだろう。
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