その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

嫉妬

水曜日の夜。
麻里子の自宅には、やわらかな灯りと、湯気の立つ手料理の香りが満ちていた。
貴之の「麻里子飯リクエスト」に応えて、彼女が用意したのは、彼の好物ばかりだった。先日のデートのお礼の意味も込めて。

ふたり並んで食卓を囲む静かな時間。箸を進めながら、貴之がふと口を開いた。

「週末、また夜景を見に行くか?汐留で、東京湾がきれいに見えるらしい」

「……いいわね」
麻里子がにこりと微笑む。

「金曜日の夜はどうだ?」

貴之の問いに、麻里子は少し間を置いて、きっぱりと答える。

「土曜日なら、いいわよ。金曜日は、人と会う約束があるの」

その一言に、貴之の心がわずかにざわつく。
“誰と会うんだ?”、喉元まで出かかった問いを、彼はぐっと呑み込んだ。

眉ひとつ動かさず、努めて平静な声で返す。

「そうか。じゃあ、土曜日にしよう」

笑顔の奥に、押し殺した猜疑と独占欲が、静かに渦を巻いていた。



貴之が帰ったあと、部屋に静けさが戻った。
食器を片づけながら、麻里子はふと思い返す。

「金曜日は、人と会う約束があるの」

そう言ったとき、貴之のまなざしがほんの一瞬、止まった。
問い返されると思った。でも、彼は何も言わなかった。

背中に残る彼のぬくもりが、まるで熱のようにじんわりと肌に残っている。

麻里子、もう帰るから。その前に、抱きしめてもいいか?

あのとき、何も答えなかったのは、拒んだわけじゃない。
ただ、うなずくことが怖かった。

彼の腕の中は、あまりにも優しくて、あまりにも強かった。
愛されたいと願えば願うほど、自分の輪郭が溶けていく気がした。

「愛されたいと思うほどに、自分を見失いそうになる、だから私は、ちゃんと自分の意志で立っていたい。
誰かの腕に甘える前に、自分の足で、ちゃんと歩いていたいの」

心の奥に、そう言い聞かせるように繰り返す。
ほんの一歩踏み出せば、きっと簡単に堕ちてしまう。
けれど、今はまだその一歩を、慎重に踏みしめたい。

優しさなのか、我慢なのか。
麻里子には、まだわからない。

けれど、自分の時間を手放したら、きっとすぐに飲み込まれてしまう。
だから今は、ほんの少しだけ、自分を守る距離を保っていた。

静かな夜の中、麻里子は自分にそう言い聞かせていた。
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