その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は、貴之と一緒にいるせいか、いつもよりお酒が進んでいた。
頬をほんのりと染め、楽しげに話す姿は、どこか無防備で――愛おしい。

貴之はグラスを傾けるふりをしながら、そんな麻里子を穏やかな眼差しで見つめていた。
言葉にせずとも伝わる信頼感が、ふたりの間に静かに流れていた。

やがて、夜も更け、タクシーで麻里子の自宅へ向かう。
車内では、眠そうな麻里子が小さくあくびをして、窓の外をぼんやりと眺めていた。

部屋の前まで送り届けると、麻里子は「ありがとう」とだけ呟いて、鍵を開けた。

「おやすみ」
貴之はそう言って背を向けた。

だが、その足取りの裏には、強く押し殺した衝動があった。
本当は、今すぐ抱きしめてしまいたかった。
けれど、それをしてしまえば、すべてを壊してしまうかもしれない。

――焦るな。今夜の彼女は、嫌がっていなかった。むしろ、少しだけ心を開いてくれた。

「……嫌じゃないから、困ってるんじゃないの」

その言葉が、何度も脳裏に響く。
だからこそ、慎重に。確実に、彼女を手に入れるために。

欲望ではなく、尊さを知った夜だった。
貴之は夜の風にそっと深呼吸をしながら、静かに自宅への道を歩き始めた。

理性の奥に潜んでいた執着が、再び、じわりと輪郭を現し始めていた。まだ触れきれぬ距離にいる麻里子を前に、その執着は、確かな姿を取り戻しつつあった。
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