その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

未来へ向かって

朝の食卓に湯気が立ちのぼる。
味噌汁の香り、焼き魚の音。静かなはずの朝に、貴之の声が低く響いた。

「麻里子。もう遠慮はしない。一緒に暮らすぞ。」

麻里子は湯飲みを口に運ぶ手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その声には、確信と熱があった。

「……遠慮はしないって、なによそれ。あなたって人は、ほんと、強引ね。」

呆れたように言いながらも、その瞳は怒っていない。
むしろ、火をともしたように、静かに赤く、熱く灯っていた。

「強引じゃなきゃ、お前をここまで奪えなかった。」

貴之は椅子を引き、麻里子の隣に座る。
その手が、彼女の指を絡めとった。

「もう離さない。名前のない関係も、遠慮した距離も、全部終わりにしたい。俺の隣に、お前がいてほしい。毎日、こうして目覚めて、飯を食って……抱きしめて、眠りたい。」

麻里子はゆっくりまばたきし、口角をわずかに上げた。

「……駄目なわけないでしょ。それくらい、わかってて聞いてるくせに。」

その声は、優しくも決然としていた。

貴之の腕が伸びて、彼女を引き寄せる。
朝の光に、ふたりの影が溶けていく。



「麻里子、一緒に暮らすことに、何か、不安があるのか?」

朝の食卓で、貴之がゆったりとした口調で問いかけた。

麻里子はコーヒーカップをそっと置いて、少し間をおいてから答える。

「……私ね、小料理屋でアルバイトを始めることにしたの。週末も勤務になるし、帰りも遅くなる日があるわ。
だから、毎晩一緒に夕食……っていうのは、難しいかもしれない。」

視線を落とすその横顔には、自分の暮らしを大切にしたいという、静かな覚悟が滲んでいた。

貴之は、少しだけ驚いたように眉を上げたが、すぐに口元に微笑を浮かべる。

「その店、どこにある?」

「麹料理教室の近くよ。高級店っていうより……ふらっと入れるような、気取らない感じのところ。」

「いいじゃないか。じゃあ、君が夜の勤務の日は、俺もそこで夕食を食べよう。
店で麻里子の料理を食べて、一緒に帰る。悪くないな。」

麻里子ははっとして顔を上げる。

「……え?でも、お店はあくまで仕事よ。あなたに気を遣わせたくないの。」

「気なんて遣わない。通える距離だし、ジムの帰りにちょうどいい」

笑いながら、貴之は箸を置いて彼女の手をそっと取った。

「暮らすっていうのは、ずっと一緒にいるってことじゃない。
それぞれの時間を大事にしながら、帰る場所をひとつにするってことだろ?」

麻里子の胸の奥で、なにかがほぐれていくような気がした。
不安というより、これは、ひとりでは持てなかった未来をふたりで育てていくという、まだ見ぬあたたかさ。

「……あなたって、本当に……前向きよね。」

麻里子が半ばあきれたように、けれど微笑みながらそう言うと、貴之は肩をすくめて笑った。

「前向きっていうか……もう後戻りするつもりはないんだ。
俺の“日常”には、君がいて当然だと思ってるから。」

そして少しだけ真顔になって、続ける。

「……男って、どうしても“解決したい生き物”なんだと思う。
君が不安そうにしてたら、俺はどうにかして安心させたくなる。
それが正しいかどうかはわからないけど……少なくとも俺は、そうやって君と一緒に生きていきたい。」


…どうにかして安心させたくなる。

その言葉が、静かに胸に沁みていく。

「……私、一人で生きていくんだって、本気で思ってたの。
一人でも、仕事して、好きな本を読んで、料理して……十分楽しくて、大丈夫だって。」

麻里子は静かに言葉を紡いだ。
けれど、そこには揺れがあった。自分で抱え込んでいた思いの蓋が、少しずつ外れていくように。

「でも……あなたに大切にされて、それがね、とても心地よくて。
ふっと力が抜けて、ほっとして……気づいたら、どんどんあなたに溺れていってたの。
自分を見失いそうで、ちょっと怖かった。」

一瞬、言葉を止めて目を伏せる。
その沈黙のなかに、たしかな想いと迷いがにじんでいた。

「だから、あなたと会うのをやめたほうがいいんじゃないかって、そう思ったこともあった。
今だって……正直、これでいいのか、って不安になるの。
こんなに誰かに甘えてしまって、本当にいいのかって。」
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