その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
貴之は、黙ってその言葉を聞いていた。
そして、ふっと微笑んで言った。

「……何年か後になってさ、あれでよかったって、ふたりで笑って言えるようにすればいいんじゃないか。」

迷いを否定せず、未来へ預けるような、そのやわらかな声に
麻里子の胸が、じんと熱くなる。

「俺は今でも、ちゃんと“よかった”って思ってるけどな。麻里子と、ここにいられること。」

ゆっくりと、彼が差し出した手に、麻里子はそっと自分の指を重ねた。

怖くても、迷っても、
この人となら、一歩ずつ、進んでいけるかもしれない。

「麻里子、他には?」

貴之がやさしく促すように尋ねると、麻里子は少し考えてから、唇を開いた。

「えっとね……実は、調理師免許を取りたいの。
ずっと、食のことをもっと深く学びたいって思ってて。
でも、そうなると家事が疎かになるかもしれないし……ふたりの時間も、今より取れなくなるかも。」

言いながら、麻里子は不安げに彼の顔をうかがった。
けれど、貴之はまったく表情を曇らせることなく、穏やかに頷いた。

「……家事をしてもらうために、一緒に住もうって言ってるんじゃない。」

その一言に、麻里子の胸が、ふっとゆるむ。

「俺は、長い間ひとりで暮らしてきた。
料理以外なら、だいたいのことは自分でできるぞ。掃除だって、洗濯だってな。」

そして、少し笑って続ける。

「勉強したいなら、調理師免許でも、それ以外でもやればいい。
麻里子の“やりたいこと”をとめるために、俺はここにいるんじゃない。
むしろ、それを応援できる男でありたいと思ってる。」

麻里子は、思わず言葉を失った。
貴之のまっすぐで温かい言葉が、まるで深く息を吸うように、胸の奥に満ちてくる。

「……それに俺、けっこう一人の時間を過ごすのも好きなんだ。特に、読書とか。
静かな部屋で本を読む時間、けっこう贅沢だと思ってる。」

ふっと、からかうように目を細めて微笑む。

「だから、気にしないでくれ。
お前がやりたいことをやってくれるほど、俺も“麻里子の隣にいる時間”の価値が、もっと深まる気がする。」

麻里子は目を伏せ、そっと微笑んだ。
胸の奥に張りつめていたものが、少しずつ溶けていくような気がした。

「……ありがとう。そんなふうに言ってくれて。」

貴之はコーヒーを一口飲んでから、さらりと言った。

「で、他には?」

「……あとね、ひとり旅もしたいの。
いろいろな地方の食を知ってみたくて。
市場とか、小さな食堂とか、土地に根づいた味を体で感じてみたいの。」

麻里子は少し気まずそうに笑った。

「……我儘よね、こんなこと言うのって。」

貴之は微笑みながら首を横に振る。

「我儘だなんて思わない。むしろ、素敵だと思う。
……俺のスケジュールで一緒に行けそうなときは、ぜひ連れて行ってくれ。」

麻里子の瞳がふっと和らぐ。
その笑顔を見て、貴之は言葉を重ねた。

「それと、お前が我儘を言うのは、俺にだけだって、約束してくれ。」

「え?」

「甘えたいとき、頼りたいとき、ほんのちょっとのワガママでも……それは俺にだけ言ってくれたら、それでいい。
その代わり、俺のわがままも、聞いてくれよ。」

麻里子はくすっと笑った。

「貴之さんの……わがまま?
あなたが、そんな言葉使うなんて、ちょっと意外。」

「あるさ、俺にだって。
“今夜は一緒に寝ろ”とか、“出張前にキスしてくれ”とか……
他にも、言い出したらキリがないかもしれない。」

さらりと甘い言葉を織り込んでくる彼に、麻里子の頬がふわりと紅潮した。

「……それ、わがままっていうより、溺愛じゃない。」

「だろ? 俺はそれしかできないんだよ。君には。」


ふたりの笑い声が、コーヒーの香りの中に溶けていく。

けれど貴之は、ふと真剣な顔つきに変わった。
そのまなざしに、麻里子は自然と背筋を伸ばす。

「……俺の最大のわがままを、言ってもいいか?」

麻里子は、わずかに息を呑んだ。

「……なに?」

貴之は迷わず言った。
静かに、けれど一言一言に、深い意志を込めて。

「麻里子を、俺の嫁さんにしたい。
できれば、今すぐにでも。
でも、急がせるつもりはない。
麻里子のペースでいい。」

麻里子の胸が、音を立てて脈打ち始めた。

「ただ、一つだけ……覚えていてほしい。
俺が君と結婚したいと心から願っていることだけは、絶対に忘れないでくれ。」

言葉に熱を込めることも、押しつけることもせず、ただ彼はまっすぐにそう言った。

それは、愛を誓うよりも先に、
「あなたの人生を生きていい、でもその中に俺がいたら嬉しい」
そんな優しさと覚悟が滲む、静かなプロポーズだった。

麻里子は、ほんの少し目を伏せたあと、ゆっくりと貴之の顔を見つめた。

「貴之さん……そんなふうに言ってくれて、ありがとう。
……すごく、嬉しい。」

頬がほんのり赤く染まる。けれど、その瞳にはまっすぐな光が宿っていた。

「でもね……“今すぐ”とは、まだ言えないの。
ただ……ただね、もし私が結婚するなら、あなたしか考えられないの。」

それは、今できる精一杯の誓い。
麻里子の言葉に、貴之は息をのんだ。

「……本当か?」

一拍の沈黙のあと、少年のように目を輝かせながら言った。

「“もう少し”だな? ……よし、もう少し、だけだぞ。
それ以上はだめだ。爺さんになるまで待つなんて、絶対ごめんだからな!」

冗談めかした口調の奥に、溢れ出るような喜びがにじんでいる。
麻里子は、そんな貴之を見て、たまらず笑った。

「……ほんと、強引なんだから。」

「お前が“俺しか考えられない”なんて言うからだ。
……嬉しすぎて、胸がはちきれそうなんだよ。」

そう言って、そっと彼女の手を取り、指先にキスを落とす。
甘く、静かな未来の約束のように。

その日の夕方、
麻里子と貴之ははスーツケースを引いて、貴之のマンションのドアをくぐった。

「おかえり、麻里子」

彼の声とぬくもりがそこにあるだけで、
その部屋が、もう自分の“帰る場所”になっていくのを感じていた。

スーツケースを降ろし、部屋の空気に溶け込むように麻里子は小さく息を吐く。
窓の外では、オレンジ色の夕陽が都会のビルの隙間から差し込んで、
まるでふたりの未来を祝福するかのように部屋を照らしていた。

いつも通りのようでいて、
どこかすべてが新しくて、愛おしい。

この日から、ふたりの暮らしがはじまった。
肩を寄せ合いながら、
ひとつ屋根の下で、愛をひとつずつ重ねていく日々が。

ここからが、ふたりの物語のつづきだった。
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