その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

人生100年なんてよく言われるけれど、それはあくまで理想に過ぎないわ。時間は止まらず、刻々と過ぎていくもの。ここまで生きてきたからこそ、私はそれがよくわかるの」

美和子は静かに視線を落とし、続けた。
「人はいつか必ず死ぬ。その『いつか』が明日かもしれないし、30年後かもしれない。でも、確かなのは、いつか必ず訪れるということよ」

「それを踏まえたうえで、あなたはこのままでいいの？ 彼も、そしてあなた自身も、ずっと待たせたままでいいって、本当に思える？」

麻里子は言葉にハッとさせられ、初めて真剣に自分の胸の内を見つめた。
「そんな風に考えたことは、なかったです」

「以前ね、真樹さんが急に倒れて、病院に運ばれたことがあったの。その頃は、まだ正式な婚約もしていない、ただの“恋人”のような関係だったの」

美和子はワイングラスをそっと置き、記憶を辿るように続けた。
「救急車には一緒に乗れたの。でも、病院に着いてすぐ、看護師さんにこう言われたの。『これ以上は、ご家族の方のみのご案内になります』って」

麻里子は静かに息をのんだ。

「その時ちょうど、真樹さんの息子さんが駆けつけてくれて……私のことを、こう言ってくれたの。“父の婚約者です”って。それでようやく、私は医師の説明を受けることも、そばにいることも許されたの」

美和子は微笑もうとしたが、その瞳にはわずかな震えがあった。
「もし、あのとき誰もいなかったら、私はただ待合室で祈ることしかできなかった。大切な人なのに、何の権利もないまま……」

麻里子は、美和子の言葉に息をのんだ。

「……そんなことがあったんですね」

美和子は静かに頷く。
「結婚って、ただの形式じゃないの。本当に必要なとき、その人の傍にいられる“権利”でもあるのよ」

「あの時ね、私がそばにいられただけじゃなくて……後から真樹さんが言ってくれたの。
“あのとき、意識はなかったけど、そばにいてくれたことが嬉しかった”って」

美和子は微笑む。

「ただいるだけでも、相手にとっては大きな支えになるの。
自分のためだけじゃない。相手が望んでいるとき、そばにいてあげられることも、大切なのよ」

美和子は、ふっと柔らかく微笑んだ。

「結婚式には……ぜひ呼んでほしいわ」

麻里子は驚いたように目を見開き、それから、そっと微笑み返した。