その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

愛されること

麻里子は平日の休みに、銀座で開催されている《山永湖順の世界観》という個展会場に足を運んでいた。
会場には、オルゴナイトなど、繊細でスピリチュアルな香りをまとった作品が並ぶ。

その中でも、麻里子のお目当ては“龍体文字”をテーマにした一角だった。
まるで意識の奥底に触れてくるような、不思議なエネルギーが漂っていて、
一文字一文字に宿る気配に、麻里子は思わず息を呑んだ。

(……すごい。この方にしか表現できない世界だわ)

足が離せず、しばらくその場に佇んでいた。
心のどこかがじんわりと熱くなり、何かを思い出すような感覚が湧いてくる。

展示をひと通り見終えたあと、併設されたギフトショップに立ち寄ると、
目に飛び込んできたのは、どこかで見覚えのあるノートブックだった。

(あ……これ、貴之さんがくれたものと同じ……)

伊香保温泉旅行の夜、貴之が「麻里子が好きそうだと思って」と言って手渡してくれた。

胸の奥がきゅっと熱くなって、麻里子は思わず立ち止まった。

そのとき、ふと隣に気配を感じる。
振り向くと、一人の女性が微笑みながら近づいてきた。
金髪のショートボブに、ゆったりした上品な黒のレースプリーツワンピースを着ている。

「本日はご来場、ありがとうございます」

その声に顔を上げると――そこに立っていたのは、あの作品たちの作者、山永湖順本人だった。

「とても素敵な作品ばかりで……特に、龍体文字のコーナーに惹かれました」

麻里子の言葉に、山永はふわりと微笑む。

「感じていただけて嬉しいです」

「言葉にできない想いを、形にしたくて。きっと、ご縁があって来てくださったんだと思います」

麻里子は小さく頷いた。

その時、ふいに後ろから声がした。

「順ちゃん!」

麻里子が振り返ると、声の主は朗らかな雰囲気の若い男性だった。
片手に大きな段ボール箱を抱えて、こちらへ小走りにやってくる。

「湊くん、なに?」

「これ、どこに運べばいい?」

「倉庫にお願い。ありがとうね」

「了解っ!」
元気な返事を残し、彼は箱を抱えたまま足早に去っていった。

麻里子は微笑みながらふと尋ねる。

「息子さん……ですか?」

「え?」

一瞬ぽかんとしたあと、山永湖順はぱっと顔を綻ばせた。

「いえ、彼、夫なんです」

その声には、隠しきれない幸福感が滲んでいた。


「あ……ごめんなさい、私……」

麻里子は気まずさから視線を落とした。

けれど、山永湖順はくすっと笑って、明るく言った。

「大丈夫ですよ。気にしないでください。よく言われるんです。実際、彼、私より26歳年下ですから」

「えっ……!」

麻里子は思わず顔を上げた。驚きが隠せない。

「そうなんですね……」

自分の中の常識が、ふわりと揺らぐのを麻里子は感じていた。

「最初は、私も“あり得ない”って思ってたんです。だって、26歳も年が離れてるし……私は離婚も経験してますしね」

湖順は、少し肩をすくめて、懐かしむように笑った。

「それでも彼、全然諦めてくれなくて。“お試しでもいいから”って、何度も言ってきて」

「お試し、ですか?」

思わず麻里子が聞き返すと、湖順はくすっと笑った。

「そう。“気が済むまで振ってくれて構わない”って言うんですよ。だから、私も本気で諦めてもらおうと、必死でした。
わざと我儘言ったり、忙しい彼を振り回したり……今思えば、ずいぶん酷いことしたなって」

「……」

「でもね、どんなに仕事が忙しくても、彼、必ず私のために時間をつくってくれるんです。
会社を経営していて、責任も大きい人なのに……若い分、体力があるんだって。ふふっ」

湖順の笑顔には、揺るがない信頼と、愛されている人だけが持つ安らぎがあった。
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