その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「それで……結婚されたんですね」
麻里子が、そっと問いかけるように言った。
湖順は優しく頷いた。
「ええ。彼が言ってくれたんです。“順子は…私の本名なんですけど…やりたいことを全部やっていい。僕のすべてを順子に捧げる。だから、君を守らせてほしい”って」
麻里子は息をのんだ。
その言葉には、まっすぐな想いと、深い覚悟が宿っていた。
「そのとき、私、思ったんです。愛されていいんだ、って。全部、望んでいいんだ、って。
だったら、この愛に……かけてみようって」
湖順の瞳は、穏やかな強さをたたえていた。
自分を許し、受け入れ、そして愛されることを選んだ女性のまなざしだった。
個展の帰り道、麻里子はまた、あのカフェに来ていた。
貴之と初めて並んで座った、あの席。
カフェオレとアップルパイを頼むなんて、まるで無意識の儀式みたい。
……どうして、こんなに甘いのに、胸がざわつくの?
同棲を始めて二週間。
思っていた以上に、穏やかで、心地よくて。
朝、隣にいるのが当たり前になって、
夜、帰ってくる場所が同じなのも嬉しくて。
……じゃあ、なぜ私は、まだ“その先”を決められずにいるの?
結婚したら、何かが変わってしまう気がする。
今のこの、繊細で優しい時間が、今を変えるたびに壊れてしまいそうで。
それとも、
私が心の奥でまだ信じているの?
“すべてを望んだら、愛されなくなる”って。
私は、私自身の欲をさらけ出すことに、どこかで「罪悪感」を抱いているのかもしれない。
こんなふうに望んでしまう私は、わがままだと。
貴之さんは、きっと全部受け止める準備があるのに。
なのに、私はまだ、自分の気持ちをすべて委ねることが怖い。
……望んでも、いいのよ。
山永湖順がそう言ってくれた。
でも、その「いいのよ」を自分で許してあげられていないのは、私だ。
私は、どうしたいの?
何を恐れて、何にしがみついているの?
カフェオレは、ぬるくなっていた。
けれど、ようやく、自分の本音に触れられそうな気がした。
その日の夕方。
キッチンで夕飯の支度をしながら、麻里子はふと手を止めた。
まな板の上で切っていた人参の赤が、夕日に染まった窓辺の光と重なって見えた。
愛されていいんだ。全部、望んでいいんだ。
山永湖順の言葉が、再び胸の奥で静かに響いていた。
強く、優しく、そして迷いのない声だった。
同時に、美和子のあの言葉もよみがえる。
女は、愛されていいのよ。
二人の言葉が重なって、麻里子の心にじんわりと広がっていく。
まるで、誰かにそっと背中を押されたような気がした。
麻里子は煮物の鍋に火を入れながら、ふと、貴之のことを思った。
あの人なら、どう言うだろう。どう、応えるだろう。
真面目で、不器用で、時に強引すぎるほどの人。
けれど、彼の中にある“まっすぐさ”を、麻里子は誰よりも知っている。
言葉では飾らずとも、行動で示してくれる愛情。
無理に求めず、でも決して手を離さない執着。
それがどれほどの覚悟なのか、最近ようやくわかってきた気がした。
(……あの人は、ずっと私を守ってくれていたんだ)
気づかなかったふりをしてきた。
強すぎる言葉や、不器用な優しさの奥にある本心を、見ないようにしていた。
けれど今になって思う。
彼の言動の一つひとつが、私を包み、支えてくれている。
心の奥で、ふわりと温かいものが広がっていく。
愛されていい。望んでいい。
もし、私がその言葉を信じられるなら。
(……私は、あの人のもとに、行ってもいいのかもしれない)
まだ答えは出せない。けれど、否定はしなくなった。
そう思えたことが、ほんの少しだけ、麻里子を自由にしていた。
鍋の中から、だしのやさしい香りがふわりと立ちのぼる。
その香りに包まれながら、麻里子はゆっくりと微笑んだ。
麻里子が、そっと問いかけるように言った。
湖順は優しく頷いた。
「ええ。彼が言ってくれたんです。“順子は…私の本名なんですけど…やりたいことを全部やっていい。僕のすべてを順子に捧げる。だから、君を守らせてほしい”って」
麻里子は息をのんだ。
その言葉には、まっすぐな想いと、深い覚悟が宿っていた。
「そのとき、私、思ったんです。愛されていいんだ、って。全部、望んでいいんだ、って。
だったら、この愛に……かけてみようって」
湖順の瞳は、穏やかな強さをたたえていた。
自分を許し、受け入れ、そして愛されることを選んだ女性のまなざしだった。
個展の帰り道、麻里子はまた、あのカフェに来ていた。
貴之と初めて並んで座った、あの席。
カフェオレとアップルパイを頼むなんて、まるで無意識の儀式みたい。
……どうして、こんなに甘いのに、胸がざわつくの?
同棲を始めて二週間。
思っていた以上に、穏やかで、心地よくて。
朝、隣にいるのが当たり前になって、
夜、帰ってくる場所が同じなのも嬉しくて。
……じゃあ、なぜ私は、まだ“その先”を決められずにいるの?
結婚したら、何かが変わってしまう気がする。
今のこの、繊細で優しい時間が、今を変えるたびに壊れてしまいそうで。
それとも、
私が心の奥でまだ信じているの?
“すべてを望んだら、愛されなくなる”って。
私は、私自身の欲をさらけ出すことに、どこかで「罪悪感」を抱いているのかもしれない。
こんなふうに望んでしまう私は、わがままだと。
貴之さんは、きっと全部受け止める準備があるのに。
なのに、私はまだ、自分の気持ちをすべて委ねることが怖い。
……望んでも、いいのよ。
山永湖順がそう言ってくれた。
でも、その「いいのよ」を自分で許してあげられていないのは、私だ。
私は、どうしたいの?
何を恐れて、何にしがみついているの?
カフェオレは、ぬるくなっていた。
けれど、ようやく、自分の本音に触れられそうな気がした。
その日の夕方。
キッチンで夕飯の支度をしながら、麻里子はふと手を止めた。
まな板の上で切っていた人参の赤が、夕日に染まった窓辺の光と重なって見えた。
愛されていいんだ。全部、望んでいいんだ。
山永湖順の言葉が、再び胸の奥で静かに響いていた。
強く、優しく、そして迷いのない声だった。
同時に、美和子のあの言葉もよみがえる。
女は、愛されていいのよ。
二人の言葉が重なって、麻里子の心にじんわりと広がっていく。
まるで、誰かにそっと背中を押されたような気がした。
麻里子は煮物の鍋に火を入れながら、ふと、貴之のことを思った。
あの人なら、どう言うだろう。どう、応えるだろう。
真面目で、不器用で、時に強引すぎるほどの人。
けれど、彼の中にある“まっすぐさ”を、麻里子は誰よりも知っている。
言葉では飾らずとも、行動で示してくれる愛情。
無理に求めず、でも決して手を離さない執着。
それがどれほどの覚悟なのか、最近ようやくわかってきた気がした。
(……あの人は、ずっと私を守ってくれていたんだ)
気づかなかったふりをしてきた。
強すぎる言葉や、不器用な優しさの奥にある本心を、見ないようにしていた。
けれど今になって思う。
彼の言動の一つひとつが、私を包み、支えてくれている。
心の奥で、ふわりと温かいものが広がっていく。
愛されていい。望んでいい。
もし、私がその言葉を信じられるなら。
(……私は、あの人のもとに、行ってもいいのかもしれない)
まだ答えは出せない。けれど、否定はしなくなった。
そう思えたことが、ほんの少しだけ、麻里子を自由にしていた。
鍋の中から、だしのやさしい香りがふわりと立ちのぼる。
その香りに包まれながら、麻里子はゆっくりと微笑んだ。