その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

麻里子の心

貴之が仕事から帰宅し、ふたりでテーブルを囲んだ。食卓には、麻里子の得意な発酵料理が並んでいる。

「ねえ、貴之さん。今日掃除してたら、これが出てきたの」

麻里子が差し出したのは、一冊の小説。ページの端が少し擦れて、何度も読まれた気配のある、あの、溺愛小説だった。

「……もしかして、読んだの?」

静かに尋ねると、貴之は頷いた。

「ああ、読んだよ。あの晩、麻里子が“ああいうふうに愛されたい”って言ってたから。知りたかったんだ。麻里子が、どんなふうに、どんな心で愛されたいと思ってるのか」

麻里子は、一瞬、息を呑んだ。

そんなふうに、自分の言葉を真剣に受け止めてくれていたことに、胸の奥がふわりとあたたかくなる。

それは、小説の中のように劇的でも、甘い台詞が飛び交うわけでもない。けれど、この人は今、現実の中で、彼女の「理想の愛し方」を手探りで探してくれているのだとわかって、麻里子は、静かに微笑んだ。

「……でも、あの小説のヒロインって、すごく我儘でしょう?」
麻里子は照れたように笑って、けれど目を伏せる。

「私も、あんなふうに求めていいのかなって……少し不安になるの。嫌われたらどうしようって」

貴之は少し首を傾げるようにして、静かに言った。

「男にとってな、特別な女の我儘って、むしろ、関係を深めていくために、必要なことだと思う」

麻里子が顔を上げると、彼のまなざしはまっすぐだった。

「麻里子が何を思ってて、何を望んでるのか。それがわかるのは、俺にとってすごく大事なんだ。小悪魔的な麻里子が可愛いとか、そういうことだけじゃない」

「……うん」

「心を見せてくれるってことだろ。それが嬉しいんだよ。遠慮されるより、よほど信頼されてるって思える」

麻里子の胸に、優しく沁みてくる言葉たち。
こんなふうに思ってくれる人が、ほんとうに目の前にいる、その事実が、何より愛しかった。



麻里子は、そっと目を伏せたまま、少しだけ口元を緩めた。

「……じゃあ、ひとつだけ。我儘、言ってもいい?」

その声に、貴之はキッチンカウンターに置いてあった、お気に入りのクラフトビールをふたつ手に取り、麻里子の隣に腰を下ろす。栓を抜きながら、目を細めて言った。

「いいよ。何でも言って。全部、叶えるつもりでいるから」

麻里子は、少しだけ息を吸ってから、まっすぐ彼の目を見つめた。


「……私を、お嫁さんにしてください」


一瞬、時が止まったような静寂のあと…

貴之が勢いよく席を立ったかと思うと、そのまま麻里子を両腕で抱き上げた。

「麻里子……ありがとう。本当に、ありがとう」

頬を寄せながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「俺、今……ものすごく幸せだ」

麻里子の腕が、彼の首にそっとまわる。

「……私も幸せ」

小さな部屋にふたりの笑い声が弾け、グラスの音が心地よく響く。

甘いビールの苦みも、あたたかな体温も、全部が幸せの輪郭を縁取っていくようだった。

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