その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「貴之さん、着替えてきたら?」
麻里子の何気ない一言に、貴之は頷いた。
「そうだな……」
ふと視線を太郎に向ける。
「太郎さん、申し訳ありませんが、私の自宅にご一緒いただけませんか?」
貴之の声音は静かで、だがどこか切実だった。
「今日は、久しぶりの麻里子さんとの再会だと承知しております。ですが—麻里子さんの兄である太郎さんに、どうしてもお話ししたいことがあるのです」
太郎は意外そうに眉を動かしたが、真っ直ぐに見つめてくる貴之の目を見て、やがて静かに頷いた。
「……分かった。聞こうじゃないか、お話ってやつを」
ふたりは貴之のマンションへ向かった。
マンションに着くと、貴之は太郎を丁寧にリビングへ通した。
落ち着いた内装と、整理された室内に、太郎は無言のまま一瞥をくれる。
「何かお飲みになりますか?」
「いや、結構です。あまり待たせたくないしね」
太郎はすぐに本題に入ろうとする。
「……そうですね、では」
貴之は静かにうなずき、ダイニングの椅子に向かい合って腰を下ろした。
「いきなりで恐縮ですが—私は、麻里子さんと結婚したいと思っています」
太郎の目が鋭く細められる。
「……いつから上司になった?」
「約二年前です。女性として意識し始めたのは、ちょうど一年前くらいからです」
「結婚歴は?」
「一度あります。二十年以上前に離婚しました。子供はいません」
「なぜ、妹なんだ?」
貴之は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言葉を選んだ。
「最初は、仕事のパートナーとしての信頼感でした。でも日々接する中で、他人に気を遣わせないように細やかに振る舞う姿や、表には出さない思いやりを知って—惚れました。外見だけじゃない。内面まで美しい人だと思ったんです」
「……で、いつから付き合ってる?」
「先週の土曜日からです」
「は?」
太郎は、呆れたようにため息をつく。
「あなたみたいな人が、今まで放っておかれたとは思えない。それに、長い独身生活のあとでいきなり“結婚したい”って……本気か?」
「本気です」
貴之は目を逸らさず、言い切った。
「妹は堅実で、仕事もできて、料理もうまい。……外では秘書、家では家政婦、なんてつもりじゃないだろうな?」
貴之は一瞬口を閉ざした。
だが、その瞳に迷いはなかった。
「確かに、私は長い間独身でした。前の結婚では、仕事にかまけて家に帰らず、結果、破綻しました。……それからずっと、結婚は向いていないと思っていたんです。でも麻里子さんと出会って、考えが変わりました」
「……」
「彼女となら、静かに、誠実に、人生を分かち合っていけると思ったんです。まだ彼女から『好き』とも『愛してる』とも言われていません。でも、それでいい。私は彼女のペースに合わせて、一歩一歩、信頼を築いていきたい」
太郎の表情が、わずかに揺れた。
その真摯な想いが、じんと胸に染みる。
「……妹は恋愛から距離を置いて生きてきた。たぶん、学生時代の失恋がトラウマになったんだと思う」
「“地味な女”とか“退屈な女”とか——言われたことですか?」
太郎の目が、ぴくりと動いた。
「知ってるのか?」
「はい。麻里子さんから直接、聞きました」
「……そうか、麻里子が……」
太郎は遠くを見つめるような眼差しになった。
その余韻を破るように、貴之は静かに立ち上がった。
「少しだけ、失礼します」
書斎から戻ってきた彼は、一枚の婚姻届と万年筆を手にしていた。
すでに自分の欄には記入を終えてある。
「太郎さん。ここに、ご署名をお願いしたいのです」
テーブルに用紙を差し出すと、貴之は深々と頭を下げた。
「私は本気です」
顔を上げ、まっすぐに太郎の目を見据える。
「このマンションは私名義で、ローンも完済済みです。資産も多少はあります。アメリカには頻繁に行けませんが、年に数回は麻里子さんを連れて行けます。必要なら証拠もすべてお見せします。彼女に、金銭的にも健康的にも苦労はさせません」
言葉に偽りはなく、熱も、誠意も、真実だった。
「婚約指輪も、すでにカルティアで購入しています。ただ、それだけは—麻里子さんに、最初に見てほしいんです。ですから今は、お見せしません」
太郎は、深いため息をついた。
「……もし麻里子が『嫌だ』って言ったら?」
「そうならないように、私はこの七日間、命がけで彼女に向き合うつもりです」
「七日間?」
「はい。彼女の夏季休暇に合わせて、私も休暇を取りました。すべてを賭けるつもりです」
しばらくの沈黙のあと—
太郎はふっと肩の力を抜いた。
「……妹だけなんですね、自分の気持ちに気づいてないのは」
貴之は、口元をわずかに緩めて頷いた。
「そう見えますか?」
「見えますよ。あんな顔であなたと会話してる妹を見るのは、初めてだった。明らかに惚れてる」
太郎は微笑み、ゆっくりと万年筆のキャップを外した。
「……分かった。麻里子を、幸せにしてやってくれ」
「ありがとうございます」
貴之は、静かに、けれど何度も深く頭を下げた。
「必ず、彼女を大切にします。心から」
その姿に、太郎の胸にもまた、ある種の安堵が満ちていた。
麻里子の何気ない一言に、貴之は頷いた。
「そうだな……」
ふと視線を太郎に向ける。
「太郎さん、申し訳ありませんが、私の自宅にご一緒いただけませんか?」
貴之の声音は静かで、だがどこか切実だった。
「今日は、久しぶりの麻里子さんとの再会だと承知しております。ですが—麻里子さんの兄である太郎さんに、どうしてもお話ししたいことがあるのです」
太郎は意外そうに眉を動かしたが、真っ直ぐに見つめてくる貴之の目を見て、やがて静かに頷いた。
「……分かった。聞こうじゃないか、お話ってやつを」
ふたりは貴之のマンションへ向かった。
マンションに着くと、貴之は太郎を丁寧にリビングへ通した。
落ち着いた内装と、整理された室内に、太郎は無言のまま一瞥をくれる。
「何かお飲みになりますか?」
「いや、結構です。あまり待たせたくないしね」
太郎はすぐに本題に入ろうとする。
「……そうですね、では」
貴之は静かにうなずき、ダイニングの椅子に向かい合って腰を下ろした。
「いきなりで恐縮ですが—私は、麻里子さんと結婚したいと思っています」
太郎の目が鋭く細められる。
「……いつから上司になった?」
「約二年前です。女性として意識し始めたのは、ちょうど一年前くらいからです」
「結婚歴は?」
「一度あります。二十年以上前に離婚しました。子供はいません」
「なぜ、妹なんだ?」
貴之は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言葉を選んだ。
「最初は、仕事のパートナーとしての信頼感でした。でも日々接する中で、他人に気を遣わせないように細やかに振る舞う姿や、表には出さない思いやりを知って—惚れました。外見だけじゃない。内面まで美しい人だと思ったんです」
「……で、いつから付き合ってる?」
「先週の土曜日からです」
「は?」
太郎は、呆れたようにため息をつく。
「あなたみたいな人が、今まで放っておかれたとは思えない。それに、長い独身生活のあとでいきなり“結婚したい”って……本気か?」
「本気です」
貴之は目を逸らさず、言い切った。
「妹は堅実で、仕事もできて、料理もうまい。……外では秘書、家では家政婦、なんてつもりじゃないだろうな?」
貴之は一瞬口を閉ざした。
だが、その瞳に迷いはなかった。
「確かに、私は長い間独身でした。前の結婚では、仕事にかまけて家に帰らず、結果、破綻しました。……それからずっと、結婚は向いていないと思っていたんです。でも麻里子さんと出会って、考えが変わりました」
「……」
「彼女となら、静かに、誠実に、人生を分かち合っていけると思ったんです。まだ彼女から『好き』とも『愛してる』とも言われていません。でも、それでいい。私は彼女のペースに合わせて、一歩一歩、信頼を築いていきたい」
太郎の表情が、わずかに揺れた。
その真摯な想いが、じんと胸に染みる。
「……妹は恋愛から距離を置いて生きてきた。たぶん、学生時代の失恋がトラウマになったんだと思う」
「“地味な女”とか“退屈な女”とか——言われたことですか?」
太郎の目が、ぴくりと動いた。
「知ってるのか?」
「はい。麻里子さんから直接、聞きました」
「……そうか、麻里子が……」
太郎は遠くを見つめるような眼差しになった。
その余韻を破るように、貴之は静かに立ち上がった。
「少しだけ、失礼します」
書斎から戻ってきた彼は、一枚の婚姻届と万年筆を手にしていた。
すでに自分の欄には記入を終えてある。
「太郎さん。ここに、ご署名をお願いしたいのです」
テーブルに用紙を差し出すと、貴之は深々と頭を下げた。
「私は本気です」
顔を上げ、まっすぐに太郎の目を見据える。
「このマンションは私名義で、ローンも完済済みです。資産も多少はあります。アメリカには頻繁に行けませんが、年に数回は麻里子さんを連れて行けます。必要なら証拠もすべてお見せします。彼女に、金銭的にも健康的にも苦労はさせません」
言葉に偽りはなく、熱も、誠意も、真実だった。
「婚約指輪も、すでにカルティアで購入しています。ただ、それだけは—麻里子さんに、最初に見てほしいんです。ですから今は、お見せしません」
太郎は、深いため息をついた。
「……もし麻里子が『嫌だ』って言ったら?」
「そうならないように、私はこの七日間、命がけで彼女に向き合うつもりです」
「七日間?」
「はい。彼女の夏季休暇に合わせて、私も休暇を取りました。すべてを賭けるつもりです」
しばらくの沈黙のあと—
太郎はふっと肩の力を抜いた。
「……妹だけなんですね、自分の気持ちに気づいてないのは」
貴之は、口元をわずかに緩めて頷いた。
「そう見えますか?」
「見えますよ。あんな顔であなたと会話してる妹を見るのは、初めてだった。明らかに惚れてる」
太郎は微笑み、ゆっくりと万年筆のキャップを外した。
「……分かった。麻里子を、幸せにしてやってくれ」
「ありがとうございます」
貴之は、静かに、けれど何度も深く頭を下げた。
「必ず、彼女を大切にします。心から」
その姿に、太郎の胸にもまた、ある種の安堵が満ちていた。