その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
貴之は素早くスーツから私服に着替え、太郎とともに麻里子の部屋へ戻った。
玄関を開けると、ふわりと絵本の読み聞かせの声が聞こえてくる。

リビングのソファでは、麻里子が翔に膝枕をしながら、やさしい声で本を読んでいた。
翔はその膝にすっぽり頭を乗せ、にこにことご満悦。

その光景を目にした瞬間—
貴之の心に、軽く稲妻が走った。

(……俺だって、されたいっ!)

ほんの一瞬だけ表情が引きつったが、それに気づいたのは、誰でもない—翔だった。

「麻里ちゃ〜ん!」
翔はさっと起き上がると、今度は麻里子の首にぎゅっとしがみついて、全力で甘え始めた。

(……あざとい……!)

貴之は、子どもの無邪気な皮をかぶった“戦略”にぐぬぬ……と内心唸る。

四人で玄関を出ると、翔・麻里子・貴之の三人は車で遊園地へ向かい、太郎は友人と会うために駅へ向かった。

車内では、後部座席の麻里子と翔がぺちゃくちゃと楽しそうにおしゃべりをしている。
翔が好きなアニメの話、今日乗りたいアトラクション、アイスクリームのこと—
そのすべてに、麻里子は笑顔で相づちを打ち、時折翔の頬を優しくなでた。

その様子をバックミラー越しに見ながら、貴之の頬も自然と緩んでいく。
(……この子が、麻里子の甥で良かった。自分の子どもだったら敵わなかったかもしれない)

そんな思いが、ふと胸をよぎった。

遊園地に到着すると、翔はすぐに麻里子の手を取った。
しっかりと、絶対に離さないぞという勢いで。

ジェットコースターにメリーゴーランド、コーヒーカップに汽車ポッポ—
麻里子と翔は笑いながら次々に乗り、貴之はその後ろをやや寂しげに、でも見守るように付き添った。

「お腹すいたー!」

翔の声に、三人は園内のレストランへ。
キッズプレートにハンバーグ、スパゲッティと楽しくランチを食べて、午後もパレードやイベントを満喫した。

そして夕方近く、帰りの時間が迫ってきた頃。

「ねえ、観覧車!乗りたい!」

翔が目を輝かせて言った。ちょうど列も少なく、三人はすぐにゴンドラに乗り込んだ。

貴之は、今度こそ麻里子の隣に座ろうと、軽く体を傾けた—その瞬間。

「おじさんはあっち!」

翔がぴしっと指をさし、反対側の席を指定してきた。

「……ちっ」

心の中で、貴之は今日何度目かわからない舌打ちをした。
広々としたゴンドラの中、麻里子と翔が並んで座り、貴之は一人対面席。

翔はここぞとばかりに麻里子にくっつき、抱きつき、あろうことかその拍子に麻里子の胸や尻に触れている。
もちろん悪気はない(……たぶん)。でも、視線の端で明らかに貴之を見て、ふふんと笑っている。

(……絶対わざとだろ)

貴之の我慢は、もはや限界ギリギリだった。

夕方、遊園地を出て、車で太郎との待ち合わせ場所へ向かう。
再会した太郎は、息子をしっかりと抱きしめた。

「楽しかったか?いい子にしてたか?たくさんお土産、買ってもらったな」

翔は嬉しそうに頷いた。

「ありがとう、麻里子。ありがとう、貴之君」

「お兄ちゃん、これ。香りさんへの出産祝い」
麻里子が小包を手渡す。

「あと……二葉にも会いたいな」

太郎は少し照れたように笑って、ふっと視線を貴之へ向ける。

「……隣に立ってる男に、連れて行ってもらえ。そのうち、アメリカでも」

そして、軽く背中を叩くと、反対方向へと歩き出そうとした—そのとき。

「おじさーん!」

翔がくいっと貴之の手を引っ張った。

貴之は驚いてしゃがみ、目線を翔に合わせる。

翔は真剣な顔で言った。

「……麻里ちゃんを幸せにしてやってくれ。男同士の約束だ!」

小さな手が、指を差し出す。

貴之は微笑んでうなずいた。

「任せとけ」
そう言って、ふたりは指切りげんまんを交わした。

その様子を見守っていた麻里子は、笑顔を浮かべた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
少し不思議な三人家族のような時間に、静かな幸福が滲んでいく。
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