その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「……あれ、君の分のコーヒーは?」

カップを手にした貴之が、不思議そうに尋ねる。

「はい、私は結構です。それでは、失礼します」

麻里子はキッチンを出て、軽やかに玄関の方へ歩き出す。
その背中に、貴之の声が追いかけてきた。

「今日は休みだろう? もう少し、ゆっくりしていけばいいじゃないか。そんなに急いで……どこか行くのか?」

なぜか声音が少し尖っている。麻里子は振り返りもせず、淡々と返す。

「休日にまで、上司と過ごしたいとは思いませんよ。ようやく繁忙期も終わったんですし、休日出勤もしばらくないでしょう?」

「……それで? 今日は何の用事だ?」

「前から決めていたんです。行ってみたかったカフェがあって。ちょっと遠い場所で、しかも営業時間が短いので、そろそろ出ないと間に合わなくて」

「カフェ?」

訝しむような声に、麻里子はやや眉を寄せた。

「……休日の予定まで、所長に報告しないといけませんか?」

すると、貴之は腕を組みながら答える。

「俺専属の秘書の身の安全を把握するのも、上司として当然の責務だろう?」

(いや、それは……なんか違う気がする)

麻里子は心の中で小さくツッコミながらも、妙な熱量に押されてしまい、正直に答えてしまう。

「今日は、その……ずっと気になってたカフェに行くんです。自然素材を使った発酵料理が評判で……一人でゆっくり過ごせそうなので」

「ふうん……」

軽く会釈してもう一度出ようとしたそのときだった。
すっと差し出された貴之の手が、麻里子の腕をそっとつかむ。

「場所は、どこだ?」

その声は穏やかだったけれど、どこか抗いがたい熱を帯びていた。

麻里子の心臓が、またひとつ脈打った。
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