その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
賑やかな打ち上げ会場。ビールや日本酒、会話と笑い声が飛び交う中で、麻里子はグラスの水を口に運んでいた。

そんなとき、不意に隣から――

「……麻里子」

耳元で、低く甘い声が囁いた。

一瞬、時が止まった。

驚いて横を向くと、貴之がいつもの無表情を崩さないまま、ほんのわずかに口元を緩めていた。酔っている……ように見える。けれど、その目は冴えている。狙いを定めるように。

「所長……いま、呼び捨てに……」

「ん? 酔ってるからな」

そう言って、彼はあくまで軽やかに笑った。だが、その吐息に混ざる微かなアルコールの香りと、耳元に響いた低温の声の余韻に、麻里子の心臓は跳ねる。

(何それ……ずるい)

ときめきと戸惑い、そして羞恥が入り混じり、麻里子は思わず視線を落とした。グラスの中の氷が、カランと音を立てる。

「……そういうの、冗談でも困ります」

絞り出すように言うと、貴之はわざとらしく首を傾けた。

「冗談、だったと思う?」

その声が、麻里子の肌のすぐ近くに落ちた。

頬が熱い。心も揺れている。

けれど麻里子は、そのままうつむき、黙ってグラスの氷を見つめていた。

(……わたしも、きっと酔ってるのよ)

麻里子はそう思い込もうとした。
あの声に、ときめいた胸の高鳴りも。
耳元にかかった吐息に、ぞくりとした体の反応も。
赤くなる頬も、目を合わせられないのも――全部、きっとアルコールのせい。

だって、冷静なはずの自分が、こんな風に動揺するなんて、おかしい。
恋愛なんてずっと遠ざけてきたのに、どうして。
所長は上司であって、誰よりも信頼すべき仕事のパートナーのはずなのに――。

(……そうよ。これは酔ってるだけ。明日になれば、きっと何もなかったことにできる)

そう自分に言い聞かせながら、麻里子はグラスの中の氷をじっと見つめた。
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