その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

デート相手は上司らしいです

麻里子は、一瞬迷った。けれど、貴之のまっすぐな視線に気圧されて、仕方なく答える。

「館山です。今は一度家に戻って、シャワーを浴びて……それから、できるだけ早く出発したいんです」

「館山か。俺も行く」

「……え?」

あまりに自然に放たれたその一言に、麻里子は思わず聞き返す。

「何言ってるんですか⁉」

「俺も行くと言ったんだ。車なら、電車より移動時間もずっと短くなる」

「いいです。所長もお疲れでしょうし、一人で行きます」

「俺は疲れてなどいない。勝手に決めるな」

貴之の声が、ほんの少しだけ低くなる。続けて、さらりと言った。

「君の抱き心地が良くて、久しぶりにぐっすり眠れた」

「……っ!」

麻里子の顔が一気に真っ赤に染まる。

(な、なに言ってるのこの人⁉ “抱き心地”って何⁉)

「や、やめてください! そんな誤解を招くようなこと……!」

慌てて言い返す麻里子に、貴之は落ち着き払った声で返す。

「誤解じゃない。事実を言ったまでだ」

心の中では、ひとりごちる。

(こんなにむきになって……本当に、可愛いな。いつもはあんなに冷静なのに。そのギャップ、たまらない)

「それに……上司と一緒じゃ、休日モードになんて切り替えられません」

麻里子は必死に言い返す。流されるわけにはいかない。だって、これはあくまで“仕事の延長”であって、プライベートじゃない..はず、なのに。

そんな彼女の言葉を聞いて、貴之は心の中で静かに息をついた。

(……俺と行くのが嫌なわけじゃないんだな。なら、いい)

「それなら、俺のこと、名前で呼べ」

「……え?」

「名字じゃなくて。下の名前で」

「え……えっと……鈴木さん?」

「なんでそうなるんだ?」
貴之が呆れたように言う。「“さん”つけても名字だろ。それじゃ意味がない」

「…………たかゆき、さん……?」

小さく、恐るおそる呼んだその声に、貴之の表情がふわりと緩む。嬉しさを隠そうともせず、穏やかな声で告げた。

「30分後、エントランスで待ってる」

「は、はい。それじゃあ……」

(……って、あれ?)

麻里子は心の中で大混乱していた。
(いつの間にか、行く流れになってる!? 断ったはずなのに⁉)

そんな麻里子の動揺を察して、貴之がふっと笑う。

「ほら、シャワー浴びるんだろ。30分なんて、すぐだぞ?」

そのまま、優しく背中を押されるようにして玄関の扉を開けられてしまった。

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