その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
マンションを出た夜風は、昼間の熱気をすっと洗い流すように涼しかった。

(……落ち着け、俺)

自分にそう言い聞かせる。

麻里子の姿が、脳裏から離れない。

シャワーを浴びようとしていた、あの無防備な背中と、上品なランジェリー。あの慎ましさと、成熟した色気。
触れたくてたまらないのに、触れてしまったら壊してしまいそうな、そんな危うさ。

(—もっと、大切にしたい)

それが今の貴之の正直な気持ちだった。

自宅の部屋に着いて、シャツを脱ぎ捨てながら浴室へ直行した。冷たい水で顔を洗い、湯を浴びながら、深く息を吐く。

—落ち着け。
—急がなくていい。
—麻里子のペースを、大切にするんだ。

風呂上がりに、タオルで髪を拭きながらスマホを手に取った。
麻里子には、何か言葉を残しておきたかった。無言で出ていったことが、少し気になっていた。

打ちかけては消し、打ちかけては消し—ようやく、送信ボタンを押す。

シャワーの間に失礼した。
今夜は、一緒にいたかったけど……
それ以上に、君に無理をさせたくなかった。
また、次の機会に。
おやすみ、麻里子。

送信を終えて、貴之はベッドに身を沈めた。
心の奥にまだ残る熱を、ゆっくりと鎮めるように。

(—次は、きちんと……麻里子の心と身体、両方を、ゆっくり抱きしめよう)

静かな夜の中で、彼のまなざしは真っすぐに未来を見据えていた。

シャワーを終えて、麻里子はタオルを巻いたまま、ベッドの縁に腰を下ろした。
ほんのりと火照った頬のまま、スマートフォンの通知に気づく。

(……貴之さん)

ロックを解除して、メッセージを開く。
文字の一つひとつが、貴之らしくて、麻里子の胸の奥をふっと温かく撫でた。

「……そんなこと、ないのに」

ぽつりと、小さな声がこぼれる。

無理なんて、していなかった。
ただ—恥ずかしかった。
今日一日、一緒に過ごして、うれしくて、うれしすぎて……
気持ちがいっぱいで、どうしていいかわからなかっただけ。

胸の奥で、じんわりと何かが溶けていく。

麻里子は布団にもぐり込みながら、スマホを両手で包み込むようにして、メッセージを打ち始めた。

メッセージ、ありがとうございます。
いま読みました。

私こそ、ちゃんと言葉にできなくて、ごめんなさい。

本当は……もう少しだけ、一緒にいたかったです。

おやすみなさい、貴之さん。
あたたかい気持ちで眠れそうです。

送信を終えると、麻里子はスマホを胸の上に乗せて、目を閉じた。

貴之の手のひらのぬくもり、強引だけどどこか優しいキス。
全部、ちゃんと覚えてる。
そして、次は—自分から、もう少し踏み出せたら。

そんな小さな決意を胸に、麻里子は静かにまぶたを閉じた。

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