その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子の荷物を軽々と肩にかけ、貴之が彼女をマンションのコンシェルジュデスクへと案内した。高級ホテルのような静謐なロビーには、落ち着いた音量でクラシックが流れている。

「鈴木様、おはようございます」

コンシェルジュの女性がにこやかに声をかけた。
その視線が自然と麻里子へ向く。

「こちらが、先日滝沢様とお話されていたお連れ様ですね?」

「おはよう。そう、その彼女だよ。カードキー、もうできてるかな?」

「はい。こちらにご用意しております。あわせて、管理会社の規定により、鈴木麻里子様のお顔写真を登録させていただきます」

手続きは滞りなく進み、麻里子はやや緊張しながらも、渡されたカードキーを手に取った。

「……なんだか、特別扱いされてるみたいで緊張するわ」

「特別なんだから当然だろ?」

冗談めかして言う貴之に、麻里子は少し頬を染めながら笑った。

貴之の部屋に着くと、麻里子は持参した着替えや日用品を、クローゼットの一角や洗面台の引き出しにそっと収めていく。その仕草は、どこか落ち着きと気品を帯びていた。

「ねえ、さっき……滝沢さんの名前が出てきたけど」

「ああ、真樹のことか。あいつは滝沢ホールディングスの社長なんだよ。このマンションを建てた不動産会社や建設会社も、みんなあいつのところと取引がある」

「そんな大企業の……社長さん?」

「そう。たいていのことは、顔パスで通るような男だよ」

「でも……そんな人に、私のことまで関わらせてしまって、いいの?」

貴之は肩をすくめ、どこか得意げな口調で言った。

「問題ないさ。借りはないけど、貸しは山ほどある。こっちの顔も立てておかないとな」

「ふふ……なんだか漫画みたいね。じゃあ、美和子さんはその奥様?」

「ああ。滝沢真樹の奥さんだ。見えないだろ? 気さくで親しみやすいしな」

「ほんと。あんなに優しくて、近寄りやすい雰囲気なのに」

「社長夫人がみんな近寄りがたいわけじゃない。美和子さんは、真樹と再婚する前に、駆け落ちして普通の家庭を築いてたんだよ」

「駆け落ち……?」

「そう。最初の旦那さんはもう亡くなってしまってな。実は美和子さん、富岡物産の一人娘なんだ」

「えっ……富岡物産って、あの?」

麻里子の目が大きく見開かれる。

「だからどこか、おっとりしていて品がある。優雅というか、気高いというか……」

貴之はにやりと笑って言った。

「そう言ってる麻里子も、十分気品にあふれてるじゃないか」

「うふふ……お世辞が上手ね」

麻里子が照れたように笑い、ふと窓の外に視線をやる。

「ねえ、プール楽しみ。思いっきり泳ぎたい気分」

「ああ、いい汗かこう」

二人は連れ立ってエレベーターへと向かった。
扉が静かに閉まる音とともに、今日の静かな特別な時間が、静かに幕を開けていった。
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