その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
先に目を覚ましたのは麻里子だった。
ベッドの中でしばらく静かに寝息を立てる貴之の横顔を見つめたあと、そっと身を起こす。
涼しげな光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

「……何か、作ろうかしら」

小さくつぶやきながら、麻里子は足音を忍ばせてキッチンへ向かった。

しかし、驚いたことに、そこにはほとんど何もなかった。
調理器具はゼロ。棚には最低限の食器が並ぶだけ。

「……まさか、包丁もない?」

思わず苦笑していると、寝室の方から足音が聞こえてきた。
寝起きの貴之が、シャツの裾を整えながらキッチンへ入ってくる。

「何してるんだ?」
大きく伸びをしながら、貴之が眠そうに尋ねた。

「何か作ろうと思ったんだけど……」
麻里子は振り返って、キッチンのあまりの空虚さに肩をすくめた。
「貴之さん、ほんとに全然料理しないのね」

「うん、まったく。残念ながら、興味がないんだ」
貴之は悪びれもせず言う。
「何度か挑戦はしたんだけどな、結局、外食の方が向いてるって結論になってな」

麻里子がくすっと笑うと、貴之は唐突に言った。

「よし、麻里子。買い物に行くぞ」

「え? また?」

「“また”ってなんだよ。“また”って」

「だって、この前もいっぱい買ってもらったばかりで……」

「それはそれ。これはこれだ」

いたずらっぽく笑う貴之が、どこか楽しげで。
麻里子は肩をすくめながらも、口元に笑みを浮かべた。

「買い物は好きじゃないのか?」

「うーん……場合によるかな。買い物、そんなに好きってわけじゃないし」

「浅草で昼飯食べてから、合羽橋で調理器具を見るってのはどうだ?」

「……それ、すごくいい!」

麻里子の目がぱっと輝く。

「合羽橋でね、見たい器具があるの。あそこ行くと、時間がいくらあっても足りないのよね」

「よし決まり。麻里子の欲しいものは、全部買うぞ」

貴之は本当に楽しそうに笑って、棚の上から車のキーを手に取った。
その姿を見て、麻里子の胸にふんわりと温かいものが広がっていく。

“この人となら、どんな日常も、ちょっと特別になる—”

そう思いながら、麻里子はそっと彼の隣に並んだ。




浅草で老舗のどじょう料理を堪能したあと、ふたりは合羽橋の道具街へと足を延ばした。
プロ仕様の器具が所狭しと並ぶ店先を眺めながら、麻里子は次々と目移りしていた。

「これは便利そうね……あ、こっちのもいいかも」
料理好きの心をくすぐる品々に、自然と足取りも軽くなる。
気がつけば、貴之が両手いっぱいに買い物袋を抱えていた。

「いったん車に置いてから、また行こうか」
「うん、そうね」

車に荷物を積み終えると、貴之がぽんと手を叩いて言った。

「さあ、次は食器だ。ここからが本番だぞ」

「えー、まだ買うの? もう十分揃った気がするけど」

麻里子が苦笑まじりにそう返すと、貴之はニヤリと笑って言った。

「肝心のものを買うのは、これからだよ」

「……肝心のもの?」

「そう。夫婦茶碗とか、揃いの箸とかさ」

思わぬ言葉に、麻里子は一瞬足を止めた。

「……でも、お箸は引き出しにあったじゃない」

「違う。あれはただの箸。麻里子と揃いのものじゃない」

貴之は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「俺は、二人のものがほしいんだ。
毎日の暮らしの中で、麻里子と“並んでいる”って、ちゃんと感じられるものが」

真っ直ぐな目をして、穏やかに、でも確かな想いを込めてそう言った。

麻里子はすぐには返事をしなかった。
けれど、繋がれた手にそっと力を込めて、貴之の手をぎゅっと握り返した。

それだけで、ふたりの間にあったものが、言葉以上に伝わっていた。
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