その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「……あの人、ね」
今日子がぽつりとつぶやく。

「今日、出勤するとき、私の誕生日のこと何にも言ってくれなかったの。顔も見ずに、“今日は遅くなる”ってだけ言って、玄関のドアが閉まった」

笑いそうになった口元が、かすかに震える。

「きっと、覚えてないんだと思う。去年は一日遅れだったけど、レストランに連れてってくれたの。だから今年こそは、って……ちょっとだけ、期待してたんだよね。バカみたい」

今日子の声が、ふっと消え入りそうになる。

麻里子はふと立ち上がり、椅子越しに今日子の手をぎゅっと握り直した。

「ねえ、今日ちゃん」
麻里子の声は、あたたかく、まっすぐだった。

「今夜、うちに泊まりに来ない?」
「え……?」

「朱里ちゃん、今年から寮生活でしょ? 旦那さんが遅くなるなら、今日は久しぶりに女同士で飲もうよ! 誕生日祝いに、私がごちそういっぱい作るから!」

麻里子は笑顔で、まるで高校時代に戻ったような無邪気さで言った。

今日子は、目を瞬かせたあと、ほんの少しだけ考えて—ゆっくりとうなずいた。

「……うん。そうさせてもらおうかな。ほんとに、いいの?」

「もちろん!」
「旦那にメッセージ送っておくね。なんて言おうかな……“今夜は親友のところに泊まります”って?」

「それでいいじゃん。むしろ、“何年ぶりのお泊まりか覚えてる?”って追伸つけといたら?」

思わず二人とも笑った。
今日子の頬には、まだ涙の名残があったけれど、その笑顔はたしかに柔らかかった。

「……ありがとう、麻里ちゃん。私、嬉しい」

小さなプレゼントの包みが、テーブルの上に光を宿していた。
それは、忘れられていた自分の“女としての人生”を、そっと思い出させてくれる贈り物でもあった。



夕暮れが街を優しく染めはじめたころ、麻里子と今日子は静かに歩いていた。
マンションまであと少しというところで、麻里子がふと足を止める。

「……あ」

前方の通りを、貴之が歩いてくるのが見えた。
トレーニング帰りなのだろう、ジャケットを腕にかけ、額にはうっすら汗が残っている。

「貴之さんだわ」

麻里子が小さく微笑んで言うと、今日子もそちらに視線を向けた。

貴之もふたりに気づき、歩調をゆるめて近づいてくる。

「おかえりなさい。お疲れさま」
「ありがとう。いいタイミングだったみたいだね」

歩きながらそう言って、貴之は今日子に視線を向ける。

「こんばんは。……ご友人の方?」

「うん。高校時代からの親友の、今日子。久しぶりに再会して、今夜はうちに泊まってもらうの」
「はじめまして。富永今日子と申します」
「鈴木貴之です。どうぞ、よろしく」
「こちらこそ、恐縮です」

麻里子が、ふと明るく声を弾ませる。

「今日ね、今日ちゃんのお誕生日なの。私、それが嬉しくて……張り切ってごちそうを作ろうと思っているの」

その言葉に、貴之が優しい微笑を浮かべた。

「そうでしたか。今日子さん、お誕生日おめでとうございます。どうか素敵な一年になりますように」

「……ありがとうございます」
今日子は丁寧に頭を下げ、少し照れたように微笑んだ。
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