その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
一度マンションに戻った貴之は、軽くストレッチをしてからシャワーを浴びた。
ジム帰りの汗を洗い流し、白いリネンシャツに着替えると、スマートフォンに麻里子からのメッセージが届いていた。

「今日ちゃんの誕生日ケーキ、買おうと思ってたんだけど、荷物がいっぱいで断念しちゃったの。
ごめん、ホールのショートケーキをお願いできる?できれば苺たっぷりのやつ♡」

思わず笑みがこぼれる。
その絵文字ひとつに、麻里子の可愛らしさと気負いのない信頼がにじんでいて、貴之の胸にじんわりと温かさが広がった。

「了解、任せて」

そう返信を済ませ、シャツの袖を軽く折りながらエレベーターでエントランスに下りる。
ロビーに立つコンシェルジュに声をかけ、近くで評判のいいケーキ店がないかを尋ねてみた。

「苺のホールケーキでしたら……タクシーで10分ほどのところに、〈カフェ・ルシェル〉というお店がございます。生菓子がとても美味しいと評判です」

その店名には聞き覚えがあった。たしか、以前にも麻里子が「ここのモンブランが絶品だった」と話していた記憶がある。

「ありがとう。行ってみます」

そう言ってすぐにタクシーを手配し、夕暮れの街へと出た。

カフェ・ルシェルのショーケースには、夕方という時間もあってか、並ぶケーキの数はまばらだった。
だが、幸いにも目的のホールケーキ、真っ白な生クリームに艶やかな苺が花のようにあしらわれた、ショートケーキのデコレーションが残っていた。

「これを、ひとつ。持ち帰りでお願いします」

受け取った箱は想像以上に軽くて、でも、その中に込められた“気持ち”の重みは、どこか誇らしいものに思えた。

帰りのタクシーに乗り込むと、窓の外の景色が少しだけ柔らかく見えた。

ただの頼まれごと――それだけのことなのに、
「麻里子から頼まれた」という事実が、貴之の胸の奥をじんわりとあたためていた。

ほんの少し前まで、彼女の生活の輪の中に自分がいる未来なんて、想像していなかった。
でも今、こうして彼女の“大切な一日”の一部になれていることが、言葉にならないほど嬉しい。

ケーキを抱えたまま、彼はふと口元を綻ばせた。

「……さて、盛大に祝ってあげないとな」

麻里子のために、そして今夜だけは“女同士の夜”に少しだけ混ざらせてもらうために。
タクシーはやわらかな夜の入り口へと、静かに走り出していた。

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