その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
今日子は気さくで話しやすい女性だった。初対面の貴之とも、すぐに打ち解けていた。
ケーキは貴之が用意してくれたもので、ホールのショートケーキだ。
「私、こういうケーキ大好きなんです。ありがとうございます!」
今日子は満面の笑みでそう言い、お礼を口にした。
麻里子は宣言通り、腕によりをかけて料理をたくさん用意していた。三人はよく食べ、よく飲み、笑いの絶えない食卓となった。
食事もひと段落したころ、今日子がワイングラスを手に、少し照れたように言った。
「貴之さん、麻里ちゃんのこと……よろしくお願いしますね。こんなに幸せそうな彼女、初めて見ました」
貴之は真剣な表情で頷いた。
「はい。大切にします」
すると、麻里子が口をとがらせて、おどけて言った。
「ちょっとぉ、それじゃあなんだか、親と婚約者の挨拶みたいじゃない?」
皆が笑ったあと、麻里子は少し頬を染めながら続けた。
「“大切にします”って言ってくれるのは嬉しいけど、もうすでに大切にされてるから……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、今日子の目に涙が浮かんだ。そして、ぽろりと涙がこぼれる。
「えっ、大丈夫ですか?」
驚いた貴之が慌てて声をかける。
「僕、何か気に障るようなことを……?」
今日子は慌てて首を振り、目を伏せたまま、かすかに震える声で言った。
「ごめんなさい、泣いたりして……違うんです。麻里ちゃんと貴之さんが、すごく幸せそうで……それを見てたら、なんだか涙が出ちゃって……ほんとに、ごめんなさい」
麻里子はそっと彼女の肩に手を添え、貴之に小声で説明した。
「今日子の誕生日、たぶん……ご主人、忘れてるかもしれないの」
その言葉に、貴之はふと表情を曇らせ、今日子の心に寄り添うように視線を向けた。
今日子は、涙を拭いながらも笑顔を取り繕おうとしていた。けれど、その瞳には、どこか寂しさが滲んでいる。
そんな彼女を見つめながら、貴之は静かにグラスをテーブルに置いた。
「今日子さん」
落ち着いた声で呼びかける。
「もし僕でよければ……話、聞きますよ。こう見えて、人の悩みを聞くのは慣れてるんです」
今日子が顔を上げると、貴之は柔らかい微笑みを浮かべていた。押しつけがましくなく、でも真剣で、逃げ道も残してくれるような距離感。
そのまなざしに、今日子の肩がすっと緩んだ。
「……ありがとう、ございます」
ワイングラスの縁を指でなぞるようにしながら、今日子はぽつりと口を開いた。
「もう、何年になるかな……夫と、ちゃんと向き合って話した記憶がないんです。たわいもない会話も、目を合わせることも、減ってしまって」
麻里子がそっと息をのみ、静かに聞いている。貴之はただ黙って、今日子の言葉を待った。
「私、女としてもう見られてないのかもしれないなって……。いや、違うな……見られたいって思ってる自分が、まだいたんだなって、最近気づいて……」
今日子ははにかむように笑ったが、その笑顔はどこか壊れそうだった。
「麻里ちゃんがね、変わったの。すごく綺麗になってて、柔らかくて……恋をしてる人の顔って、ああいう顔なんだなって、見てて思ったんです」
「でも私は……」
そこで言葉を切り、今日子はほんの少し、唇を噛んだ。
「自分が女として、どうあるかなんて、考えなくなってた。鏡を見るたび、自信がなくなっていって。どうせ今さら、って……そう思ってたのに、今日ここで麻里ちゃんを見てたら、胸がぎゅっとなって……なんか、涙が止まらなくなっちゃって」
静かな沈黙が流れた。
貴之はうなずき、優しい声で応えた。
「今日子さん……それでも、今こうして、ご自身のことを言葉にできるっていうのは、もう十分すごいことですよ」
「誰だって、自分のこととなると鈍くなります。でも、今の今日子さんの言葉には、まだ“なりたい自分”が、ちゃんと息をしてる」
「……僕は、そう思います」
今日子はふっと目を伏せた。
そしてその横で、麻里子がそっと今日子の手に自分の手を重ねた。
ケーキは貴之が用意してくれたもので、ホールのショートケーキだ。
「私、こういうケーキ大好きなんです。ありがとうございます!」
今日子は満面の笑みでそう言い、お礼を口にした。
麻里子は宣言通り、腕によりをかけて料理をたくさん用意していた。三人はよく食べ、よく飲み、笑いの絶えない食卓となった。
食事もひと段落したころ、今日子がワイングラスを手に、少し照れたように言った。
「貴之さん、麻里ちゃんのこと……よろしくお願いしますね。こんなに幸せそうな彼女、初めて見ました」
貴之は真剣な表情で頷いた。
「はい。大切にします」
すると、麻里子が口をとがらせて、おどけて言った。
「ちょっとぉ、それじゃあなんだか、親と婚約者の挨拶みたいじゃない?」
皆が笑ったあと、麻里子は少し頬を染めながら続けた。
「“大切にします”って言ってくれるのは嬉しいけど、もうすでに大切にされてるから……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、今日子の目に涙が浮かんだ。そして、ぽろりと涙がこぼれる。
「えっ、大丈夫ですか?」
驚いた貴之が慌てて声をかける。
「僕、何か気に障るようなことを……?」
今日子は慌てて首を振り、目を伏せたまま、かすかに震える声で言った。
「ごめんなさい、泣いたりして……違うんです。麻里ちゃんと貴之さんが、すごく幸せそうで……それを見てたら、なんだか涙が出ちゃって……ほんとに、ごめんなさい」
麻里子はそっと彼女の肩に手を添え、貴之に小声で説明した。
「今日子の誕生日、たぶん……ご主人、忘れてるかもしれないの」
その言葉に、貴之はふと表情を曇らせ、今日子の心に寄り添うように視線を向けた。
今日子は、涙を拭いながらも笑顔を取り繕おうとしていた。けれど、その瞳には、どこか寂しさが滲んでいる。
そんな彼女を見つめながら、貴之は静かにグラスをテーブルに置いた。
「今日子さん」
落ち着いた声で呼びかける。
「もし僕でよければ……話、聞きますよ。こう見えて、人の悩みを聞くのは慣れてるんです」
今日子が顔を上げると、貴之は柔らかい微笑みを浮かべていた。押しつけがましくなく、でも真剣で、逃げ道も残してくれるような距離感。
そのまなざしに、今日子の肩がすっと緩んだ。
「……ありがとう、ございます」
ワイングラスの縁を指でなぞるようにしながら、今日子はぽつりと口を開いた。
「もう、何年になるかな……夫と、ちゃんと向き合って話した記憶がないんです。たわいもない会話も、目を合わせることも、減ってしまって」
麻里子がそっと息をのみ、静かに聞いている。貴之はただ黙って、今日子の言葉を待った。
「私、女としてもう見られてないのかもしれないなって……。いや、違うな……見られたいって思ってる自分が、まだいたんだなって、最近気づいて……」
今日子ははにかむように笑ったが、その笑顔はどこか壊れそうだった。
「麻里ちゃんがね、変わったの。すごく綺麗になってて、柔らかくて……恋をしてる人の顔って、ああいう顔なんだなって、見てて思ったんです」
「でも私は……」
そこで言葉を切り、今日子はほんの少し、唇を噛んだ。
「自分が女として、どうあるかなんて、考えなくなってた。鏡を見るたび、自信がなくなっていって。どうせ今さら、って……そう思ってたのに、今日ここで麻里ちゃんを見てたら、胸がぎゅっとなって……なんか、涙が止まらなくなっちゃって」
静かな沈黙が流れた。
貴之はうなずき、優しい声で応えた。
「今日子さん……それでも、今こうして、ご自身のことを言葉にできるっていうのは、もう十分すごいことですよ」
「誰だって、自分のこととなると鈍くなります。でも、今の今日子さんの言葉には、まだ“なりたい自分”が、ちゃんと息をしてる」
「……僕は、そう思います」
今日子はふっと目を伏せた。
そしてその横で、麻里子がそっと今日子の手に自分の手を重ねた。