その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「今日子さん、俺が思うことを言ってもいいですか?」

不意にかけられた貴之の静かな問いかけに、今日子は少し驚いたように顔を上げ、彼を見つめた。

「……どうぞ。お願いします」

貴之は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せてから、ゆっくりと問いかけた。

「ご主人に……最近、甘えたことってありますか?」

「……は?」

思いがけない言葉に、今日子は一瞬きょとんとして首をかしげた。

「彼に……甘えたこと?」

その響きを確かめるように言葉を繰り返し、少し考えてから、かすかに笑って首を振った。

「ないですね。子どもが大きくなってからは、そんなこと……まったく」

貴之は静かに頷いた。

「……甘えてみてください。ほんの小さなことでもいいんです。たとえば、届かない棚の掃除を手伝ってほしいとか、肩を揉んでって頼むとか、コンビニでスイーツを買ってきて、って言ってみるとか」

今日子は一瞬目を丸くし、思わず聞き返すように「え……?」と声を漏らした。

貴之は、言葉を丁寧に選びながら、続けた。

「たいていの男は、愛する女性に頼られたいと思ってます。守りたいし、必要とされたい。……そういう欲求って、理屈じゃなく本能的なものかもしれません」

「女性は……本来とても強い。でもその強さゆえに、“頼っちゃいけない”とか、“自分でなんとかしなきゃ”って、無意識に抱えてしまう人が多いかもしれない。特に母親になれば、子どもを優先して、自分は後回し……それが当たり前になってしまうこともあるかも」

「でも、そんな日々が続けば、自分が何もかも背負わなきゃって、無意識に思い込んでしまうこともある」

今日子は、グラスを両手で包みながら、じっと貴之の言葉に耳を傾けていた。

「ご主人も……もしかしたら、今日子さんに頼ってほしいって、思ってるかもしれません。甘えてほしい。でも、どうやってそれを伝えたらいいのかわからなくて、言えないままになってる……そんな可能性もあるんじゃないかって、俺は思うんです。……今さら、って、きっと照れくさいんですよ。男って、案外そういうところ、子どもみたいに不器用ですから」

そう言って、貴之は少しだけ笑みを浮かべた。

今日子はしばらく黙っていた。けれど、その表情には、これまで向き合おうとしなかった心の扉が、ほんの少し軋んで開いたような、そんな揺れが確かにあった。

今日子はグラスの中で静かに揺れるワインを見つめながら、胸の奥にふわりと湧いた感情を見つめていた。

甘える、か。

そんなの、とっくに忘れていた。
結婚して十数年、子育てに追われて、自分が“女”であることを意識する余裕なんてなかった。
気がつけば、何でも自分でこなすのが当たり前になっていて、夫に頼ることすら、億劫に感じるようになっていた。

けれど今、貴之の落ち着いた声に背中を押されて、心の奥のほうに埋もれていた“女性としての自分”が、少しずつ目を覚ましていくのを感じていた。

「……そうですね。どうやったらいいのか、いまいちわからないけど……甘えてみようかな」

少し照れたように笑ってそう言うと、貴之が頷きながらも、いたずらっぽく目を細めた。

「できるだけ、可愛く、ですよ」

「えっ、可愛く……?」

目を見開いた今日子に、貴之は冗談のような、でもどこか本気の口調で続けた。

「そうです。自然に、笑顔で。“ねえ、お願い”って。イライラした口調や命令形だと、逆効果になりかねませんから」

「……たとえば?」

「うーん、そうですね。『コンビニ行くついでに、プリン買ってきてくれたら嬉しいな〜』とか。語尾、柔らかめで」

今日子は吹き出しそうになりながらも、笑って頷いた。

「そんな風に言ったら、彼、びっくりするかもしれませんね」

「たぶん、めちゃくちゃ嬉しいと思いますよ。心の中では、ガッツポーズしてるかもしれません」

今日子の頬が、ほんのり赤く染まった。

そして、自分でも気づかないうちに、その目元にはさっきまでの涙の跡とは違う、穏やかな光が戻っていた。

< 67 / 127 >

この作品をシェア

pagetop