その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
トイレから出た麻里子の耳に、まだ書斎から男たちの低い声が漏れ聞こえてきた。
「なあ、貴之……いったいどうなってるんだ?」
真樹の声だった。
「……麻里子のことを考えるとな、まだ迷うんだ。これが本当に、彼女にとって一番いいのかって……」
麻里子の名が出た瞬間、心臓が跳ねた。いけないとわかっていながら、書斎のドアの陰に身を寄せ、耳を澄ませてしまう。
「お前にしては珍しいな。そんなに迷うとはな」と真樹が言う。「そういえば聞いたぞ……初めてだって?」
その一言に、麻里子の呼吸が止まる。咄嗟に手で口元を覆った。目の前がぐらりと揺れる。
「……そうなんだよ。だから……正直、手間取ってる」
貴之の言葉に、酔いが一瞬で冷めていった。
「だったらさっさと変えちまえよ。経験のない奴に時間割くなんて、非効率だ」
真樹の無神経な言葉が、鋭利な刃のように麻里子の胸に突き刺さる。もう立っているのもやっとだった。
なんとか足を動かしてキッチンへ向かい、美和子のもとにたどり着く。
「美和子さん、今夜は本当に……ありがとうございました。とても素敵な夜でした」
なんとか笑顔を作って言ったが、声は震えていた。
「あら麻里ちゃん……顔色が悪いけど、大丈夫?」
「はい、ちょっと酔ってしまって……先に失礼させていただきます。貴之さんは真樹さんと、まだお話が弾んでいるようですので……彼の部屋で休ませてもらいます」
「そう……でも、本当にひとりで大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。エレベーターで降りるだけですから」
「それもそうね……気をつけてね」
麻里子は小さく頭を下げ、重い足取りでエレベーターに向かった。押したのは真樹の部屋のフロアではなく、一階のボタンだった。
…あそこにはもう、戻れない。
扉が閉まる瞬間、真樹と貴之の会話が頭の中で何度も再生される。
「……初めてだって?」
「手間取ってる」
「変えろよ。時間の無駄だ」
――ばか……私。
私は、大切にされてるって、思い込んでた。貴之さんの言葉や優しさに浮かれて、舞い上がって……。
この歳になっても、まだ見誤るなんて。
私なんか、貴之さんの隣に立てるはずなんかなかったんだ。
エレベーターが一階に着くころには、麻里子の頬を、涙が何本も伝っていた。
財布も、鍵も——
何もかも、貴之の部屋に置いたままだった。
それでも、戻る気になれなかった。
エレベーターを降りた麻里子は、うなだれたままビルのエントランスを出て、人気のない夜道を歩き始めていた。涙が止まらない。止めようとしても、勝手にあふれ出てくる。
やっぱり、私なんて。
私じゃ、ダメなんだ。
「麻里子!!」
その声に背筋が震えた。
振り向く間もなく、背後から走ってきた貴之が麻里子の腕を掴んだ。
「大丈夫か? 美和子さんから聞いて急いで部屋に戻ったら……お前がいない。何やってるんだ、こんなところで!」
俯いたままの麻里子の顔を、貴之がのぞき込む。
「……麻里子……おい、なんで泣いてる? どこか苦しいのか? 痛いのか?」
苦しいのは…私の心。
でも、そんなこと、言えるはずもなかった。
「……何か言ってくれ。黙ったままじゃ、俺はどうしていいかわからない」
そう言って、麻里子を抱き寄せようとしたその瞬間。
「……やめて」
麻里子は、貴之の腕を振りほどこうとした。悲しげな瞳を浮かべて、震える声で呟いた。
「だって……貴之さんにとって、私とのことなんて……時間の無駄なんでしょう?
他の女性だったら、迷わなくて済んだでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、貴之の顔色が変わった。
「……時間の、無駄……だと?」
声の奥に、怒気が渦を巻いていた。
氷のような鋭さを帯びた視線が、真っ直ぐに麻里子を貫く。
「……お前、本気で……そう思ってるのか?」
麻里子は答えられなかった。唇が震え、声にならない。
「なあ、貴之……いったいどうなってるんだ?」
真樹の声だった。
「……麻里子のことを考えるとな、まだ迷うんだ。これが本当に、彼女にとって一番いいのかって……」
麻里子の名が出た瞬間、心臓が跳ねた。いけないとわかっていながら、書斎のドアの陰に身を寄せ、耳を澄ませてしまう。
「お前にしては珍しいな。そんなに迷うとはな」と真樹が言う。「そういえば聞いたぞ……初めてだって?」
その一言に、麻里子の呼吸が止まる。咄嗟に手で口元を覆った。目の前がぐらりと揺れる。
「……そうなんだよ。だから……正直、手間取ってる」
貴之の言葉に、酔いが一瞬で冷めていった。
「だったらさっさと変えちまえよ。経験のない奴に時間割くなんて、非効率だ」
真樹の無神経な言葉が、鋭利な刃のように麻里子の胸に突き刺さる。もう立っているのもやっとだった。
なんとか足を動かしてキッチンへ向かい、美和子のもとにたどり着く。
「美和子さん、今夜は本当に……ありがとうございました。とても素敵な夜でした」
なんとか笑顔を作って言ったが、声は震えていた。
「あら麻里ちゃん……顔色が悪いけど、大丈夫?」
「はい、ちょっと酔ってしまって……先に失礼させていただきます。貴之さんは真樹さんと、まだお話が弾んでいるようですので……彼の部屋で休ませてもらいます」
「そう……でも、本当にひとりで大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。エレベーターで降りるだけですから」
「それもそうね……気をつけてね」
麻里子は小さく頭を下げ、重い足取りでエレベーターに向かった。押したのは真樹の部屋のフロアではなく、一階のボタンだった。
…あそこにはもう、戻れない。
扉が閉まる瞬間、真樹と貴之の会話が頭の中で何度も再生される。
「……初めてだって?」
「手間取ってる」
「変えろよ。時間の無駄だ」
――ばか……私。
私は、大切にされてるって、思い込んでた。貴之さんの言葉や優しさに浮かれて、舞い上がって……。
この歳になっても、まだ見誤るなんて。
私なんか、貴之さんの隣に立てるはずなんかなかったんだ。
エレベーターが一階に着くころには、麻里子の頬を、涙が何本も伝っていた。
財布も、鍵も——
何もかも、貴之の部屋に置いたままだった。
それでも、戻る気になれなかった。
エレベーターを降りた麻里子は、うなだれたままビルのエントランスを出て、人気のない夜道を歩き始めていた。涙が止まらない。止めようとしても、勝手にあふれ出てくる。
やっぱり、私なんて。
私じゃ、ダメなんだ。
「麻里子!!」
その声に背筋が震えた。
振り向く間もなく、背後から走ってきた貴之が麻里子の腕を掴んだ。
「大丈夫か? 美和子さんから聞いて急いで部屋に戻ったら……お前がいない。何やってるんだ、こんなところで!」
俯いたままの麻里子の顔を、貴之がのぞき込む。
「……麻里子……おい、なんで泣いてる? どこか苦しいのか? 痛いのか?」
苦しいのは…私の心。
でも、そんなこと、言えるはずもなかった。
「……何か言ってくれ。黙ったままじゃ、俺はどうしていいかわからない」
そう言って、麻里子を抱き寄せようとしたその瞬間。
「……やめて」
麻里子は、貴之の腕を振りほどこうとした。悲しげな瞳を浮かべて、震える声で呟いた。
「だって……貴之さんにとって、私とのことなんて……時間の無駄なんでしょう?
他の女性だったら、迷わなくて済んだでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、貴之の顔色が変わった。
「……時間の、無駄……だと?」
声の奥に、怒気が渦を巻いていた。
氷のような鋭さを帯びた視線が、真っ直ぐに麻里子を貫く。
「……お前、本気で……そう思ってるのか?」
麻里子は答えられなかった。唇が震え、声にならない。