その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
朝食を終え、ふたりは予定より少し早めに宿を後にした。
静かな朝の空気の中、貴之のジャケットの内ポケットには、小さな箱がひとつ。
それは目立たないほどの重さなのに、胸の奥にはずしりと響いていた。
これからの一歩を決める、それは人生そのものを変える瞬間になると分かっていた。
車はやがて、目的地にたどり着く。
「……ここって」
麻里子が声を漏らす。目の前には、赤い欄干の美しい橋――河鹿橋。
朝の光に濡れたように輝くその姿は、どこか現実感が薄れて見えた。
「わあ……とっても素敵……」
麻里子が感嘆の声を上げる。
「この橋、たしかアニメのモデルになった橋よね?」
「ああ、そうらしいな」
貴之の声は低く、どこか上の空だった。
そのまま沈黙が落ちる。ふたりは、橋の中央に立ち止まる。
「……貴之さん?」
不安げに問いかける麻里子の手を、貴之がそっと両手で包む。
彼の手のひらはあたたかくて、微かに震えていた。
彼は、真っ直ぐに麻里子を見つめて言った。
「麻里子。……結婚しよう」
その言葉は、朝の澄んだ空気の中に、静かに響いた。
周囲の木々が風に揺れ、鳥の鳴き声が一瞬だけ遠のくような錯覚。
麻里子は、その場に立ち尽くしたまま、まばたきも忘れていた。
「けっ……こん……?」
声にならないささやきが、彼女の唇から漏れた。
まるで時間が止まったかのような長い沈黙が、ふたりを包む。
麻里子の「ごめんなさい」が橋の上に落ちた瞬間、
貴之の胸に、冷たい風が吹き抜けたようだった。
予想していた答えではなかった。
否――どこかで、確信していたのだ。
彼女なら、頷いてくれると。
迷わずに、その小さな手を預けてくれると。
だが、彼女は今、下を向いたまま……何も言わず、沈黙の中にいた。
貴之はその沈黙に刺されるような痛みを感じながらも、
怒りも、苛立ちも、口にしなかった。
代わりに――
ゆっくりと麻里子を抱き寄せた。
その身体は、驚いたようにわずかにこわばった。
けれど拒まれはしなかった。
貴之は、そっと耳元で囁くように問いかけた。
「麻里子……今、何を思ってる?」
声は低く、震えを押し隠すように静かだった。
「怖いのか? 迷ってるのか? それとも……俺じゃないと思ったか?」
彼の指が、背中を一度だけやさしくなぞった。
押しつけるのではなく、確かめるように。
彼女の答えを、彼は本当に知りたかった。
すぐに返事はなかった。
けれど、彼女の頬に伝う涙が、
その沈黙より雄弁に、すべてを物語っているように思えた。
静かな朝の空気の中、貴之のジャケットの内ポケットには、小さな箱がひとつ。
それは目立たないほどの重さなのに、胸の奥にはずしりと響いていた。
これからの一歩を決める、それは人生そのものを変える瞬間になると分かっていた。
車はやがて、目的地にたどり着く。
「……ここって」
麻里子が声を漏らす。目の前には、赤い欄干の美しい橋――河鹿橋。
朝の光に濡れたように輝くその姿は、どこか現実感が薄れて見えた。
「わあ……とっても素敵……」
麻里子が感嘆の声を上げる。
「この橋、たしかアニメのモデルになった橋よね?」
「ああ、そうらしいな」
貴之の声は低く、どこか上の空だった。
そのまま沈黙が落ちる。ふたりは、橋の中央に立ち止まる。
「……貴之さん?」
不安げに問いかける麻里子の手を、貴之がそっと両手で包む。
彼の手のひらはあたたかくて、微かに震えていた。
彼は、真っ直ぐに麻里子を見つめて言った。
「麻里子。……結婚しよう」
その言葉は、朝の澄んだ空気の中に、静かに響いた。
周囲の木々が風に揺れ、鳥の鳴き声が一瞬だけ遠のくような錯覚。
麻里子は、その場に立ち尽くしたまま、まばたきも忘れていた。
「けっ……こん……?」
声にならないささやきが、彼女の唇から漏れた。
まるで時間が止まったかのような長い沈黙が、ふたりを包む。
麻里子の「ごめんなさい」が橋の上に落ちた瞬間、
貴之の胸に、冷たい風が吹き抜けたようだった。
予想していた答えではなかった。
否――どこかで、確信していたのだ。
彼女なら、頷いてくれると。
迷わずに、その小さな手を預けてくれると。
だが、彼女は今、下を向いたまま……何も言わず、沈黙の中にいた。
貴之はその沈黙に刺されるような痛みを感じながらも、
怒りも、苛立ちも、口にしなかった。
代わりに――
ゆっくりと麻里子を抱き寄せた。
その身体は、驚いたようにわずかにこわばった。
けれど拒まれはしなかった。
貴之は、そっと耳元で囁くように問いかけた。
「麻里子……今、何を思ってる?」
声は低く、震えを押し隠すように静かだった。
「怖いのか? 迷ってるのか? それとも……俺じゃないと思ったか?」
彼の指が、背中を一度だけやさしくなぞった。
押しつけるのではなく、確かめるように。
彼女の答えを、彼は本当に知りたかった。
すぐに返事はなかった。
けれど、彼女の頬に伝う涙が、
その沈黙より雄弁に、すべてを物語っているように思えた。