その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
夜風が心地よい頃、ふたりは部屋付きの露天風呂に肩を並べていた。
湯の温もりに一日中歩いた身体がほぐれていく。

「今日は、ずいぶん歩いたな」
湯面を眺めながら、貴之がぼそりと言う。
「ええ、ほんとに。でもいろんな発見があって、楽しかったわ」
「夢二の記念館、美術館、牧場……」
「うどんも、おまんじゅうも、美味しかったし……」
麻里子がふわりと笑う。目を細めるその表情は、湯けむりに照らされてどこか儚く、愛おしい。

「……明日、東京に戻るのね」
「そうだな。もう夏休みも、ほとんど終わりか」
「なんだか、ちょっと寂しいわね」
「……実は、明日の朝、どうしても寄りたい場所があるんだ」

「どこかしら?」
麻里子が首をかしげる。貴之は静かに微笑んだ。
「……着くまでのお楽しみ。構わないか?」
「うん。貴之さんと一緒なら、どこでも嬉しい」

そう言って微笑み返す麻里子に、貴之はそっと唇を寄せた。
静かな湯音がふたりの気配を包み込み、何も言葉はいらなくなっていく。

風呂上がり、部屋に戻ると、温かい灯りの下で夕食が用意されていた。
季節の肴に地酒を少し。ふたりで静かに杯を交わしながら、会話も途切れがちになる。
心地よい疲れと、酔いと、そして互いのぬくもりに包まれて——。

「……麻里子」
「ん……?」
「今夜は、早く抱きしめたくてしかたない」
「……ふふ。さっきから、そんな目で見てた」

浴衣の裾がゆるくほどけ、灯りの影が柔らかに肌を撫でる。
ふたりの唇が重なると、もう何も、抑える理由がなくなった。

掛け布団の下、指先が、記憶をなぞるように肌を這い、
名前を呼ぶ声が、低く甘く、何度も繰り返された。

言葉よりも深く触れ合う夜。
まるで、この旅の終わりに、ふたりの関係がまた新しく生まれ直すかのように。
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