その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「……何が怖いのか、何に迷っているのか、がわからないの……」
麻里子の声は小さくて、まるで橋の下のせせらぎに消えてしまいそうだった。
けれど、貴之の胸には、はっきりと届いた。

彼女は顔を上げなかった。
ただ、抱かれたまま、震える声で続ける。

「でもね……貴之さんじゃない、とは思っていないわ」

貴之は、そっと目を閉じた。
その言葉に、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。
拒絶ではなかった。
不安の中で、それでも自分の名前を選び取ってくれようとする声だった。

「……わかった」

貴之はそう静かに言うと、麻里子の髪にそっと唇を触れさせた。
彼女の迷いを受け止めるように、優しく、しっかりと抱きしめる。

決して押さず、責めず、ただ彼女を包み込む。
だがその胸の奥では、別の火が密かに灯っていた。

(……いいだろう。ならば、仕切り直しだ)
貴之はすぐに、次なる一手を考えていた。
彼女の心を焦がすために。もう一歩、深く引き寄せるために。
それは男としての直感であり、譲れない意地でもあった。

ふたりは静かに橋を後にした。
車へと戻り、エンジンがかかる。

帰途につく車内、会話はなかった。
けれど沈黙の中にも、互いの存在は確かにあった。
風に揺れる木々の影が窓を流れていく――
言葉にならない想いが、淡く車中を満たしていた。


「麻里子、夕飯どうしたい?」

車をマンションの駐車場に停めたあと、ハンドルから手を離しながら貴之が静かに尋ねた。

「……あんまり、おなかすいていないの」

助手席の麻里子は視線を落としたまま答えた。微熱のように胸の奥がざわついている。貴之の隣にいるだけで、感情が揺れる。優しい言葉も、時には胸に引っかかる。

「じゃあ、あとでにしようか」

「うん……」

間を置いて、麻里子が口を開く。

「お土産を、美和子さんに届けていいかしら? さっき連絡したら、自宅にいらっしゃるって」

「そうだな。俺も行く」

マンションのエレベーターで、二人は上の階へと向かった。真樹と美和子が住むそのフロア。エレベーターが静かに開くと、すでにドアの前には真樹が立っていた。

「真樹、いたのか?」

貴之が声をかける。

「ああ、俺も休暇中だ。頼もしい後継ぎがいるからな」

「それは光栄だ」

軽く笑って交わすふたりの会話。リビングでは、美和子が麻里子を優しく迎えた。

「まあ、うれしいわ。二人とも来てくれて。さあ、座って。お茶淹れるわね」

旅行の話をしながら、土産物を渡し合う和やかなひととき。けれど、その空気を微かに揺らしたのは、美和子の何気ない提案だった。

「ねえ、二人とも今週で休暇も終わりでしょう? 明日のお昼、ここでみんなでランチなんてどう? 頂いたおそばと天ぷらで」

麻里子が笑みを返そうとした、そのとき。

「せっかくですが、明日のランチは予定があるんです」

と貴之が先に口を開いた。

「ほう、予定ってなんだ?」

真樹が問い返す。

「麻里子の引っ越しだ」

一瞬、時間が止まった気がした。

「え……?」

麻里子の口から漏れた小さな声。視線が貴之の横顔を探す。彼は涼しい顔で、まるで当然のように答えた。

「まあ素敵。一緒に暮らし始めるのね」

美和子が喜びをにじませて言ったその言葉が、麻里子の胸に刺さった。

どうして、話してくれなかったの?

どうして、私の気持ちも聞かずに決めてしまうの?

笑顔を保ちながらも、麻里子の内側では怒りと困惑がじわじわと沸き立っていた。

帰り道、ふたりの会話はなかった。静かな車内。言葉よりも、温度の違いが痛かった。

貴之の自宅に着いた瞬間だった。

「きゃ……!」

麻里子が何かを言いかける間もなく、貴之は彼女の身体を抱き上げた。まるで何もかもを包み込むように。その腕には甘さも優しさもあるけれど、同時に、抗えないほどの強さがあった。

「ちょ、ちょっと……!」

「話はあとだ」

低い声が耳元に落ちる。

寝室のドアが開けられ、麻里子はそのままベッドへと運ばれた。ふわりとシーツの上に降ろされ、見下ろす貴之の瞳はどこまでも真剣だった。愛しさと独占欲と、そして支配の香りが、同じ熱で混ざっている。

「麻里子は、俺と暮らす」

貴之の手が麻里子の頬に触れる。柔らかな指先。
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