その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

麻里子の決心

麻里子は体調不良を理由に、今夜の夕食は辞退させてほしいとグループメッセージに送った。
「ちょっと、旅行ではしゃぎすぎました」
そう添えて、眠そうなコアラが謝っているスタンプもつけた。
美和子も貴之もすぐに返信をくれた。心配する言葉に、少し胸が痛んだ。

しばらくして、貴之から個別にメッセージが届く。
──会いたい。顔が見たい。
その短い文に、胸が揺れた。

けれど、麻里子は指を止めずに打ち込む。
「今夜は…ひとりにさせてください」
しばらく既読がつかず、ようやく灰色のチェックが青に変わったとき、彼女はそっと目を閉じた。

軽く夕食をとり、熱いお茶を飲み干す。
深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
迷いの余白を、少しずつ塗りつぶすように。

静かな部屋。灯りを落としたデスクにノートを開く。
ペンを取り、まっさらな紙に一文字ずつ、丁寧に書き始めた。

──退職届。

麻里子は、ノートに退職届の冒頭を書きながら、ふと目を伏せた。

──最近まで、よく言われていた言葉がある。

「結婚こそが、女の幸せ」
「せめて一度くらい結婚したらいいのに」
「こんな好条件、あなたにはもったいない話よ」

お見合いのあと、あの人はそう言った。
条件。肩書き。収入。家柄。
──それがすべてのように、当然のように。

一度だけ食事をした男性には、鼻で笑われた。
「もう年なんだから、意地張らずに俺にしとけよ」
「わがまま言うなよ。年取ったら一人じゃ寂しいだけだぞ」


別に、結婚が嫌なわけじゃない。
ただ、「女だから」という理由で押しつけられる幸せに、心を明け渡したくなかっただけだ。

麻里子は考えていた。
どうして、未婚だというだけで「経験が足りない」と思われるのだろう。
確かに、世の中には経験を重視する風潮がある。
でも、人生なんて、すべてのことを経験できるほど長くはない。
誰もが何かを知らないまま、何かを置き去りにしたまま、日々を終えていくのではないだろうか。
だからこそ、みんな「人生は短い」って言うのではないのかな……。

結婚してもしなくても、離婚したとしても。
それぞれが、自分の選んだ道を歩いてきたという意味では、どれも同じように“経験”なのに。
どこかで、「何かが足りない」とされてしまう未婚という立場。
でも本当は、それでちゃんと完結しているのかもしれない。

たとえ結婚という経験がなくても、私の人生は、私のものとして続いてきたし、今ここにある。
足りないんじゃない。
きっと、そういう物語を私は生きてきたというだけ。

心が揺れるたびに、背筋を伸ばし、もう一度呼吸を整える。
これは逃げじゃない。
里子はまた一文字、ペンを走らせた。
これは“諦め”ではない。
“始まり”の一筆だ。

麻里子の目に、決意の光が宿っていた。
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