その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

貴之の執着

貴之が目を覚ましたとき、隣に麻里子の姿はなかった。
冷えたシーツに手を伸ばし、ふとテーブルの上に目をやる。そこには、丁寧な字で書かれた一枚のメモが置かれていた。

「旅行ありがとうございました。とても楽しかったです。今日は自宅に戻ります。」

瞬間、貴之の手はその紙を無意識に握りしめていた。
クシャリと音を立てて歪んだメモを握りしめたまま、彼は無言でシャワールームに向かう。

熱い湯を頭から浴びながら、貴之は呻くように思った。
麻里子、なぜ逃げる。

無言のまま熱いシャワーを頭から浴びる。
身体に当たる湯の温度が、どこか遠くの出来事のようだった。

（なぜ、黙って帰る……麻里子）

あの夜、プロポーズをした時の彼女の目を思い出す。
まっすぐにこちらを見ていた。涙をにじませながらも、逃げるような目ではなかった。

（何に迷っている？　俺を恐れているのか。それとも――）

抱き合っていたとき、確かに感じた。
俺を受け入れ、愛していると、自分の口で何度も言ったじゃないか。

貴之は手で顔を覆い、理性の最後の欠片をつかむように、額を押さえる。
今すぐ追いかけたい衝動が胸を焼いた。だが、その衝動をのみ込む。
焦るな。追い詰めるな。
理性が言う。

冷水に切り替えたシャワーが、皮膚の感覚を鋭く研ぎ澄ませる。

焦る必要はない。
逃げたつもりでも、麻里子の心はすでにこちらに引き寄せられている。
彼女の迷いごと、丸ごと包み込む覚悟が、自分にはある。
そして、選択肢など最初からないのだと、いずれ麻里子にもわかる。

鋭く目を閉じ、ブルブルっと頭を振って目を開く。
「……結婚は、必ずする。逃がさない」

声は静かだった。
けれど、その奥にあるものは、凍てついた執念と、どうしようもない愛だった。