甘い生活を夢見る私は、甘くない彼に甘やかされる
「それじゃあ、まずは、包丁持ってみろ」

「えぇ――……」

 自炊への第一歩、という事で、先輩は、買って来てくれた食材をキッチンに並べ、私にそう言った。
 昨日、購入した物の中に、大小の包丁、まな板――後は、キッチンバサミというものがあり、その中から、大きい方の包丁を手渡されたのだ。
 買ったばかりのエプロンをつけた私は、おずおずと両手に持つと、チラリと肩越しに振り返る。
 すると、カフェの店員のような、腰だけのエプロンをつけた先輩は、真後ろで、しかめっ面を見せた。
「……お前なぁ……」
「何ですか」
「学校で、習ったコト無ぇのかよ」
「何の授業で?」
「――何の……って……家庭科だよ、家庭――」
 キョトンとしている私を見下ろすと、先輩は、言葉を切り、大きくため息をついた。
「……そうか……。……お嬢様学校出身か……」
「え、家庭科は……栄養学とか?そういうのしか、やってないんですけどー」
「――……まあ、いい。――ホラ」
 あきれたように、私をあしらうと、先輩は真後ろから手を伸ばした。

 ――え⁉

 そして、私の右手を、その大きな手で包み込む。

 ――え?え??

 それだけで、もう、心臓が爆発しそうになるのに、先輩は平然と身をかがめ、私の耳元で言った。
「こうやって持つんだよ。じゃねぇと、指切るぞ」
「――へ?」
 握られた手が、徐々に熱くなる。
 なのに――先輩は、淡々と”授業”を進めた。
「反対側は猫の手。こうやって――」
 そして、私の左手を包み、丸くさせる。
「ね、猫?」
「――簡単に言えば、指出してると切っちまうから、引っ込めておけ、ってコトだ」
「ハ……ハイ……」
 完全に、先輩の腕の中にいる私は、ぎこちなくもうなづく。
 けれど――この距離は、心臓の音が聞こえてしまいそうで――そして、先輩の香りに包み込まれているようで、私は、キツく目を閉じてしまう。

 ――うぅー……もう、こんなの、恋人の距離だよね?

「おい、コラ、聞いてるのか、月見?」

「ひゃああっ……!!?」

 思考が飛んでいたところに、不意打ちで耳元に聞こえた低い声に、全身が跳ね上がってしまう。
 その反動で、手から包丁が滑り落ちた。

「うぉっ……⁉」
「きゃっ……!」

 二人の反射神経が、まあまあ良かったのか、ただ、運が良かったのか――落ちていった包丁は、床に刺さって見事に自立。
「――だ、大丈夫か」
「ハ、ハイ……」
 けれど、先輩に抱き締められた状態に気がついた私は、真っ赤になって、硬直。
「おい……月見?」
「なっ……何でもないっ……デス……」
 そして、カタコトになりながらも、そっと、先輩から離れたのだった。
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