私の世界
第十一話
翌朝、私は逃げるように学校へ向かった。
昨夜の出来事が頭から離れないからだ。
あの紫色の痕跡、軋み音、そして頭の中に直接流れ込んできた概念の数々。
『たすけて』『はやくたすけて』
それらの声なき声は、まだ私の脳裏にこびりついていた。
教室に入ると、いつものように自分の席に向かった。
友達はまだ来ていない。私は一人で机に座り、カバンから筆箱を取り出した。
いつものように授業の準備をしようと思ったのだが、筆箱を開けた瞬間、私の手が止まった。
シャープペンシルがそこにあった。
確かに私が使っているペンだ。青いボディに銀色のグリップ。
使い慣れた重さと手触り。でも、何かが違う。
軸の部分に、見覚えのない文字が刻まれていた。
「M.K」
私は息を止めてその文字を見つめた。いつからこんな文字が彫られていたのだろう。
昨日までこんなものはなかったはずだ。それに、イニシャルだとしても、私の名前にはMもKも入っていない。
M.K。
その瞬間、私の中で何かが繋がった。如月ミツキ。ミツキさんのイニシャルだ。
でも、なぜ私のペンにミツキさんのイニシャルが刻まれているのだろう?これは私のペンだ。
色がおかしくなったけれども。これを使い始めた時の記憶も鮮明にあった。
でも、この文字は記憶にない。
もしかして最初からあったのだろうか。私が気づかなかっただけなのだろうか?
色が変わったときと同じように。
いや、そのように思い込むことは不可能だった。私はこのペンを毎日使っている。
軸の部分を握る度に、こんな文字があれば絶対に気づくはずだ。
私は不安になって、ペンを手の中で回してみた。文字は確実にそこにある。
まるで最初から刻まれていたかのように、自然に馴染んでいる。
でも私の記憶では、このペンは無地だったはずだ。
頭が混乱してきた。ああ、何もかもが曖昧になってきている。
本当に昨日まで無地だったのだろうか。それとも最初からこの文字があって、私が見落としていただけなのだろうか?
でも、M.Kという文字が意味するものは明白だった。如月ミツキ。
もう存在しないはずの彼女の名前。誰も覚えていない彼女の痕跡が、私のペンに刻まれている。
もう考えたくない。
私は教科書を開いた。そのようにして、気を紛らわせようとしたのだが、そこでまた異変に気がついた。
ページの余白に、見たことのない図形が描かれていた。
それは複雑な幾何学模様だった。円と直線が絡み合って、まるで迷路のような複雑な形を作っている。でも、よく見ると、その中にインクの染みのような不規則な模様が混じっていた。
そして、その染みをじっと見ていると、まるで人の顔のように見えてきた。
目があり、鼻があり、口がある。でもそれは普通の顔ではない。苦悶の表情を浮かべた顔、泣いている顔、叫んでいる顔。様々な感情に歪んだ顔が、インクの染みの中に浮かび上がっている。
私は消しゴムを取り出した。
この気味の悪い図形を消してしまいたかった。でも、どんなに強く擦っても、図形は消えなかった。まるで紙の繊維と一体化してしまったかのように、頑強に残り続けた。
消しゴムの屑が散らばるだけで、図形は微動だにしない。それどころか、擦れば擦るほど、顔の表情がはっきりしてくるような気がした。まるで私の視線に反応して、より鮮明になっているかのように。
私は教科書を閉じた。
見ていると気分が悪くなってくる。でも閉じた後も、あの顔の表情が頭に残っていた。
苦しんでいる顔、助けを求めている顔。どこかで見たことがあるような気がする。
ミツキさんの顔だろうか。それともこれは私の想像が作り出した幻覚だろうか。
その時、友達が教室に入ってきた。いつものように明るい挨拶をしながら。
「おはよう!」
私は慌てて笑顔を作った。
「おはよう」
でも、彼女たちと話していても、頭の中はあの図形のことでいっぱいだった。ペンのイニシャルのことも気になった。
一時間目の授業が始まった。数学の時間だった。
先生が黒板に数式を書いている。でも私の集中力は散漫だった。ノートを取ろうとしてペンを握ると、あの「M.K」の文字が指先に触れる。
そのたびに、ミツキさんのことが頭に浮かんだ。
彼女はどこにいるのだろう。本当にあの異世界にいるのだろうか。それとも、もうどこにも存在しないのだろうか。
授業中、私は何度もペンを見つめた。文字は確実にそこにある。
でも、いつからあったのかが分からない。まるで現実が少しずつ書き換えられているような感覚だった。
休み時間になると、私は恐る恐る教科書を開いた。あの図形がまだあるかどうか確認したかった。
図形はまだそこにあった。それどころか、さらに複雑になっているような気がした。新しい線が加わって、より迷路のような形になっている。そして、インクの染みの部分も、より鮮明な顔の形を描いていた。
私は周りを見回した。クラスメイトたちは普通に過ごしている。
誰も私の教科書の異変に気づいていない。この図形は私にしか見えないのだろうか。
私は隣の席の子に声をかけた。
「ねえ、これ見て」
彼女は私の教科書を覗き込んだ。
「何?」
「この図形。変じゃない?」
彼女は首をかしげた。
「図形?どこに?」
「ここよ。ほら、この複雑な線とか」
私は必死に指差した。でも、彼女の表情は変わらなかった。
「何も見えないけど?」
私は諦めた。やっぱり、これは彼女には見えないのだ。
確実に私の目には見えているのに、彼女には見えない。
「大丈夫?最近、変なこと言うことが多いよ」
彼女の言葉が心に刺さった。
変なことを言う。
確かに最近の私は、周りから見れば変なのかもしれない。
存在しないはずの人のことを心配して、見えないはずのものを見て、聞こえないはずの声を聞いている。
でも私には確実に見えてる。
ペンの文字も、教科書の図形も、部屋の紫色の痕跡も。
◇
昼休みになると、友達が私のところにやってきた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
その言葉に、私は不安を覚えた。
「何?」
「最近、ちょっと変じゃない?」
やはりそう来た。私は身構えた。
「変って、どういう意味?」
「なんか、ぼーっとしてることが多いし」
「時々、知らない人に話しかけてるよね」
知らない人に話しかける?私にはそんな記憶がない。
「え?そんなことしてない」
「してるよ。昨日も、廊下で一人で何か喋ってた」
「空気に向かって話してるみたいで、ちょっと怖かった」
私は混乱した。確かに最近、頭の中でミツキさんやサヤカさんのことを考えることが多い。
でも、声に出して話していただろうか。
もしかしたら、無意識のうちに、一人で話していたのだろうか。
「それに、さっきも教科書の何もないところを指差して、『図形がある』なんて言ってたし」
友達の言葉が胸に刺さった。何もないところ。彼女たちには本当に見えないのだ。
私だけが見ているこの現象は、周りの人にとっては存在しないものなのだ。
「疲れてるんじゃない?少し休んだ方がいいかも」
友達の心配そうな声が、遠くから聞こえてくるような気がした。
私は彼女たちとの間に、見えない壁があることを感じた。まるで私だけが別の世界にいるような感覚だった。
「そうかもしれない」
私はそう答えるしかなかった。
けれども、本当のことを話しても、信じてもらえないだろう。
ミツキさんのこと、サヤカさんのこと、異世界のこと。どれも彼女たちの記憶からは消去されている。
放課後、私は一人で家に帰った。友達の誘いも断って。
彼女たちと一緒にいると、自分の異常さを突きつけられるような気がして辛かった。
家に着くと、私は真っ先に自分の部屋に向かった。
そして、ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。
壁の紫色の痕跡が、さらに大きくなっていた。
もはや痕跡という言葉では表現できないほど、広範囲に広がっている。天井まで到達して、部屋の大部分を覆っていた。
でも、それ以上に驚いたのは、痕跡の形が明確に変化していることだった。
以前は不規則な模様だったのが、今は完全に人の顔の形を描いている。
目がはっきりと識別できる。鼻も、口も。そして、その顔は明らかに苦悶の表情を浮かべていた。
まるで何かに苦しめられているような、絶望的な表情だった。
私はその顔をじっと見つめた。そして、その顔に見覚えがあることに気がついた。
ミツキさんの顔だった。
でも、それは彼女が生きていた時の顔ではない。
苦しみに歪んだ、現実離れした表情をしたミツキさんの顔だった。
まるで、あの異世界で苦痛を味わい続けているかのような、痛々しい表情だった。
私は部屋の中央に立って、その顔を見上げた。壁全体に広がったミツキさんの顔が、私を見下ろしている。
その視線には、助けを求めるような切実さがあった。
でも、私には何もできない。彼女を助けることができなかった私に、今更何ができるというのだろう。
夜になると、例の軋み音が始まった。
でも、今夜の音は昨夜とは明らかに違っていた。より複雑で、より多層的になっている。
まるで複数の音が重なり合って、不協和音の交響曲を奏でているかのようだった。
そして、頭の中に流れ込んできたのは、単純な概念ではなかった。それは無数の人々の感情の断片だった。
孤独感、絶望感、助けを求める気持ち、理解されない苦しみ。様々な感情が波のように押し寄せてくる。
まるで私の脳が、巨大な悲しみの集合体に接続されてしまったような感覚だった。
『だれもみてくれない』
『ひとりはさびしい』
『きえてしまいたい』
『たすけて』
『わたしたちをわすれないで』
それらの感情は、声として聞こえるのではなく、直接的な思考として流れ込んできた。無数の人々の心の叫びが、私の意識に直接アクセスしている。
私は枕で頭を覆ったが、その感情の波は止まらなかった。むしろ、だんだん強くなっているような気がした。まるで私の抵抗を感じ取って、より強力に押し寄せてくるかのように。
『あなたもいっしょに』
『こっちにいれば』
『ひとりじゃない』
『みんながまっている』
私は布団の中で体を丸めた。
でも、感情の波は止まることがない。それどころか、新しい種類の感情も流れ込んできた。
懐かしさ、温かさ、受け入れられる安心感。まるで故郷に帰るような、安らぎの感情だった。その感情に包まれると、現在の辛さが嘘のように和らいだ。
『こちらにおいで』
『あなたのいばしょがある』
『りかいしてくれるひとがいる』
私は混乱した。この感情は何なのだろう。なぜ、こんなにも心地よく感じるのだろう。
まるで長い間迷子になっていた子供が、やっと本物の家族を見つけたような安堵感があった。
でも、これは危険なことなのではないだろうか?
私は必死に抵抗しようとした。でも、感情の波はあまりにも強力で、私の意志力を上回っていた。まるで大きな河の流れに逆らおうとする小さな魚のような無力感があった。
朝まで、私はその感情の波に翻弄され続けた。時には抵抗し、時には流されそうになりながら。
◇
夜の時間は長くもあり、短くも感じられた。
朝日が私の部屋に差し込んできて、どう考えても朝らしい様子になったとき。
私が起きると、その異変に気がついた。
あの紫の痕跡は、もう私の部屋以外の場所にも現れ始めていたからだ。
廊下の壁にも、同じような斑点が現れていた。
階段を降りて、リビングを確認した。そして、そこにも同じような斑点があった。でも、家族は何も気づいていない様子だった。
朝食の時、私は母親に尋ねた。
「お母さん、壁に何か変なものが見えない?」
「変なもの?何のこと?」
「紫色の斑点みたいな」
「また変なことを言って。疲れてるんじゃない?」
やっぱり、母親には見えないのだ。
学校に向かう途中、私は街の様子を注意深く観察した。道路、建物、看板、木々。
どれも普通に見える。でも、よく見ると、微妙な違いがある。
建物の壁に、うっすらと紫色の斑点が見える。
道路のアスファルトに、不規則な模様が浮かんでいる。それらは他の人には見えないようで、みんな普通に歩いている。
私だけが、この変化を感じ取っているのだ。
学校に着いても、状況は同じだった。校舎の壁、廊下の床、教室の天井。微妙な変化が、あちこちに現れている。
この現象は何を意味するのだろう。そして、これから私はどうなってしまうのだろう。
でも、答えは見つからなかった。
ただ、何とも言い難い不安の塊だけが、私の心を支配していた。
昨夜の出来事が頭から離れないからだ。
あの紫色の痕跡、軋み音、そして頭の中に直接流れ込んできた概念の数々。
『たすけて』『はやくたすけて』
それらの声なき声は、まだ私の脳裏にこびりついていた。
教室に入ると、いつものように自分の席に向かった。
友達はまだ来ていない。私は一人で机に座り、カバンから筆箱を取り出した。
いつものように授業の準備をしようと思ったのだが、筆箱を開けた瞬間、私の手が止まった。
シャープペンシルがそこにあった。
確かに私が使っているペンだ。青いボディに銀色のグリップ。
使い慣れた重さと手触り。でも、何かが違う。
軸の部分に、見覚えのない文字が刻まれていた。
「M.K」
私は息を止めてその文字を見つめた。いつからこんな文字が彫られていたのだろう。
昨日までこんなものはなかったはずだ。それに、イニシャルだとしても、私の名前にはMもKも入っていない。
M.K。
その瞬間、私の中で何かが繋がった。如月ミツキ。ミツキさんのイニシャルだ。
でも、なぜ私のペンにミツキさんのイニシャルが刻まれているのだろう?これは私のペンだ。
色がおかしくなったけれども。これを使い始めた時の記憶も鮮明にあった。
でも、この文字は記憶にない。
もしかして最初からあったのだろうか。私が気づかなかっただけなのだろうか?
色が変わったときと同じように。
いや、そのように思い込むことは不可能だった。私はこのペンを毎日使っている。
軸の部分を握る度に、こんな文字があれば絶対に気づくはずだ。
私は不安になって、ペンを手の中で回してみた。文字は確実にそこにある。
まるで最初から刻まれていたかのように、自然に馴染んでいる。
でも私の記憶では、このペンは無地だったはずだ。
頭が混乱してきた。ああ、何もかもが曖昧になってきている。
本当に昨日まで無地だったのだろうか。それとも最初からこの文字があって、私が見落としていただけなのだろうか?
でも、M.Kという文字が意味するものは明白だった。如月ミツキ。
もう存在しないはずの彼女の名前。誰も覚えていない彼女の痕跡が、私のペンに刻まれている。
もう考えたくない。
私は教科書を開いた。そのようにして、気を紛らわせようとしたのだが、そこでまた異変に気がついた。
ページの余白に、見たことのない図形が描かれていた。
それは複雑な幾何学模様だった。円と直線が絡み合って、まるで迷路のような複雑な形を作っている。でも、よく見ると、その中にインクの染みのような不規則な模様が混じっていた。
そして、その染みをじっと見ていると、まるで人の顔のように見えてきた。
目があり、鼻があり、口がある。でもそれは普通の顔ではない。苦悶の表情を浮かべた顔、泣いている顔、叫んでいる顔。様々な感情に歪んだ顔が、インクの染みの中に浮かび上がっている。
私は消しゴムを取り出した。
この気味の悪い図形を消してしまいたかった。でも、どんなに強く擦っても、図形は消えなかった。まるで紙の繊維と一体化してしまったかのように、頑強に残り続けた。
消しゴムの屑が散らばるだけで、図形は微動だにしない。それどころか、擦れば擦るほど、顔の表情がはっきりしてくるような気がした。まるで私の視線に反応して、より鮮明になっているかのように。
私は教科書を閉じた。
見ていると気分が悪くなってくる。でも閉じた後も、あの顔の表情が頭に残っていた。
苦しんでいる顔、助けを求めている顔。どこかで見たことがあるような気がする。
ミツキさんの顔だろうか。それともこれは私の想像が作り出した幻覚だろうか。
その時、友達が教室に入ってきた。いつものように明るい挨拶をしながら。
「おはよう!」
私は慌てて笑顔を作った。
「おはよう」
でも、彼女たちと話していても、頭の中はあの図形のことでいっぱいだった。ペンのイニシャルのことも気になった。
一時間目の授業が始まった。数学の時間だった。
先生が黒板に数式を書いている。でも私の集中力は散漫だった。ノートを取ろうとしてペンを握ると、あの「M.K」の文字が指先に触れる。
そのたびに、ミツキさんのことが頭に浮かんだ。
彼女はどこにいるのだろう。本当にあの異世界にいるのだろうか。それとも、もうどこにも存在しないのだろうか。
授業中、私は何度もペンを見つめた。文字は確実にそこにある。
でも、いつからあったのかが分からない。まるで現実が少しずつ書き換えられているような感覚だった。
休み時間になると、私は恐る恐る教科書を開いた。あの図形がまだあるかどうか確認したかった。
図形はまだそこにあった。それどころか、さらに複雑になっているような気がした。新しい線が加わって、より迷路のような形になっている。そして、インクの染みの部分も、より鮮明な顔の形を描いていた。
私は周りを見回した。クラスメイトたちは普通に過ごしている。
誰も私の教科書の異変に気づいていない。この図形は私にしか見えないのだろうか。
私は隣の席の子に声をかけた。
「ねえ、これ見て」
彼女は私の教科書を覗き込んだ。
「何?」
「この図形。変じゃない?」
彼女は首をかしげた。
「図形?どこに?」
「ここよ。ほら、この複雑な線とか」
私は必死に指差した。でも、彼女の表情は変わらなかった。
「何も見えないけど?」
私は諦めた。やっぱり、これは彼女には見えないのだ。
確実に私の目には見えているのに、彼女には見えない。
「大丈夫?最近、変なこと言うことが多いよ」
彼女の言葉が心に刺さった。
変なことを言う。
確かに最近の私は、周りから見れば変なのかもしれない。
存在しないはずの人のことを心配して、見えないはずのものを見て、聞こえないはずの声を聞いている。
でも私には確実に見えてる。
ペンの文字も、教科書の図形も、部屋の紫色の痕跡も。
◇
昼休みになると、友達が私のところにやってきた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
その言葉に、私は不安を覚えた。
「何?」
「最近、ちょっと変じゃない?」
やはりそう来た。私は身構えた。
「変って、どういう意味?」
「なんか、ぼーっとしてることが多いし」
「時々、知らない人に話しかけてるよね」
知らない人に話しかける?私にはそんな記憶がない。
「え?そんなことしてない」
「してるよ。昨日も、廊下で一人で何か喋ってた」
「空気に向かって話してるみたいで、ちょっと怖かった」
私は混乱した。確かに最近、頭の中でミツキさんやサヤカさんのことを考えることが多い。
でも、声に出して話していただろうか。
もしかしたら、無意識のうちに、一人で話していたのだろうか。
「それに、さっきも教科書の何もないところを指差して、『図形がある』なんて言ってたし」
友達の言葉が胸に刺さった。何もないところ。彼女たちには本当に見えないのだ。
私だけが見ているこの現象は、周りの人にとっては存在しないものなのだ。
「疲れてるんじゃない?少し休んだ方がいいかも」
友達の心配そうな声が、遠くから聞こえてくるような気がした。
私は彼女たちとの間に、見えない壁があることを感じた。まるで私だけが別の世界にいるような感覚だった。
「そうかもしれない」
私はそう答えるしかなかった。
けれども、本当のことを話しても、信じてもらえないだろう。
ミツキさんのこと、サヤカさんのこと、異世界のこと。どれも彼女たちの記憶からは消去されている。
放課後、私は一人で家に帰った。友達の誘いも断って。
彼女たちと一緒にいると、自分の異常さを突きつけられるような気がして辛かった。
家に着くと、私は真っ先に自分の部屋に向かった。
そして、ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。
壁の紫色の痕跡が、さらに大きくなっていた。
もはや痕跡という言葉では表現できないほど、広範囲に広がっている。天井まで到達して、部屋の大部分を覆っていた。
でも、それ以上に驚いたのは、痕跡の形が明確に変化していることだった。
以前は不規則な模様だったのが、今は完全に人の顔の形を描いている。
目がはっきりと識別できる。鼻も、口も。そして、その顔は明らかに苦悶の表情を浮かべていた。
まるで何かに苦しめられているような、絶望的な表情だった。
私はその顔をじっと見つめた。そして、その顔に見覚えがあることに気がついた。
ミツキさんの顔だった。
でも、それは彼女が生きていた時の顔ではない。
苦しみに歪んだ、現実離れした表情をしたミツキさんの顔だった。
まるで、あの異世界で苦痛を味わい続けているかのような、痛々しい表情だった。
私は部屋の中央に立って、その顔を見上げた。壁全体に広がったミツキさんの顔が、私を見下ろしている。
その視線には、助けを求めるような切実さがあった。
でも、私には何もできない。彼女を助けることができなかった私に、今更何ができるというのだろう。
夜になると、例の軋み音が始まった。
でも、今夜の音は昨夜とは明らかに違っていた。より複雑で、より多層的になっている。
まるで複数の音が重なり合って、不協和音の交響曲を奏でているかのようだった。
そして、頭の中に流れ込んできたのは、単純な概念ではなかった。それは無数の人々の感情の断片だった。
孤独感、絶望感、助けを求める気持ち、理解されない苦しみ。様々な感情が波のように押し寄せてくる。
まるで私の脳が、巨大な悲しみの集合体に接続されてしまったような感覚だった。
『だれもみてくれない』
『ひとりはさびしい』
『きえてしまいたい』
『たすけて』
『わたしたちをわすれないで』
それらの感情は、声として聞こえるのではなく、直接的な思考として流れ込んできた。無数の人々の心の叫びが、私の意識に直接アクセスしている。
私は枕で頭を覆ったが、その感情の波は止まらなかった。むしろ、だんだん強くなっているような気がした。まるで私の抵抗を感じ取って、より強力に押し寄せてくるかのように。
『あなたもいっしょに』
『こっちにいれば』
『ひとりじゃない』
『みんながまっている』
私は布団の中で体を丸めた。
でも、感情の波は止まることがない。それどころか、新しい種類の感情も流れ込んできた。
懐かしさ、温かさ、受け入れられる安心感。まるで故郷に帰るような、安らぎの感情だった。その感情に包まれると、現在の辛さが嘘のように和らいだ。
『こちらにおいで』
『あなたのいばしょがある』
『りかいしてくれるひとがいる』
私は混乱した。この感情は何なのだろう。なぜ、こんなにも心地よく感じるのだろう。
まるで長い間迷子になっていた子供が、やっと本物の家族を見つけたような安堵感があった。
でも、これは危険なことなのではないだろうか?
私は必死に抵抗しようとした。でも、感情の波はあまりにも強力で、私の意志力を上回っていた。まるで大きな河の流れに逆らおうとする小さな魚のような無力感があった。
朝まで、私はその感情の波に翻弄され続けた。時には抵抗し、時には流されそうになりながら。
◇
夜の時間は長くもあり、短くも感じられた。
朝日が私の部屋に差し込んできて、どう考えても朝らしい様子になったとき。
私が起きると、その異変に気がついた。
あの紫の痕跡は、もう私の部屋以外の場所にも現れ始めていたからだ。
廊下の壁にも、同じような斑点が現れていた。
階段を降りて、リビングを確認した。そして、そこにも同じような斑点があった。でも、家族は何も気づいていない様子だった。
朝食の時、私は母親に尋ねた。
「お母さん、壁に何か変なものが見えない?」
「変なもの?何のこと?」
「紫色の斑点みたいな」
「また変なことを言って。疲れてるんじゃない?」
やっぱり、母親には見えないのだ。
学校に向かう途中、私は街の様子を注意深く観察した。道路、建物、看板、木々。
どれも普通に見える。でも、よく見ると、微妙な違いがある。
建物の壁に、うっすらと紫色の斑点が見える。
道路のアスファルトに、不規則な模様が浮かんでいる。それらは他の人には見えないようで、みんな普通に歩いている。
私だけが、この変化を感じ取っているのだ。
学校に着いても、状況は同じだった。校舎の壁、廊下の床、教室の天井。微妙な変化が、あちこちに現れている。
この現象は何を意味するのだろう。そして、これから私はどうなってしまうのだろう。
でも、答えは見つからなかった。
ただ、何とも言い難い不安の塊だけが、私の心を支配していた。