私の世界

第八話

 家に帰って夕食を済ませた後、私は早めにベッドに入った。午前二時四十四分まで起きているために、少し眠っておこうと思ったのだ。
 でも緊張して眠れなかった。頭の中で今夜の計画を何度も確認する。踏切に行く、ミツキさんの名前を呼ぶ、友達になりたいと伝える。

 調べた内容によると、純粋な善意による呼びかけが必要だということだった。私の気持ちは純粋だ。ミツキさんを助けたい。本当の友達になりたい。きっと届くはずだ。

 午前二時に目覚ましをセットして、私は目を閉じた。少しでも体力を回復しておかなければ。
 目覚ましが鳴ったとき、私はすでに起きていた。正直、緊張でまったく眠れなかったのだ。

 私は静かにベッドから起き上がって、服を着替えた。家族に気づかれないよう、音を立てないように気をつけながら玄関に向かう。
 夜の街は静寂に包まれていた。街灯だけが道を照らし、私の足音だけが響いている。時々、遠くで車の音が聞こえるけど、ほとんど人気はない。

 学校近くの踏切に着いたのは、午前二時三十分だった。まだ時間がある。私は調べた手順を確認した。
 二時四十四分ちょうどに、ミツキさんの名前を呼ぶ。そして彼女が最も執着しているものの名前も呼ぶ。『友達』。きっとこれが彼女を現実に引き戻す鍵になるはずだ。

 午前二時四十三分。時間だ。私は大きく息を吸って、声を張り上げた。

「如月ミツキさん!」

 私の声が、夜の静寂に響いた。踏切の向こうに何かが見える気がした。

「帰ってきてください!私が友達になります!」

 踏切の向こうから、かすかに光が見えるような気がした。
 でも電車が来る時間じゃない。あれは何だろう。空気がひんやりと冷たく、肌に纏わりつくような感覚があった。
 まるで別の世界からの風が吹いているような気がした。

 そしてその光の中に、ぼんやりとした人影が現れた。

「ミツキさん!」

 私は手を伸ばした。影はだんだんはっきりしてきて、確かにミツキさんの姿だった。
 苦しそうな表情で、何かに引っ張られているような様子だった。

 彼女の口が動いているのが見えた。でも声は風に消されて、よく聞こえない。

「……けて……」

 か細い声が聞こえた。

「助けて……でも……」
「でも何ですか?」
「みんな……私を嫌ってる……」

 私は必死に叫んだ。

「そんなことありません!私はミツキさんの友達です!一人じゃありません!」

 ミツキさんの姿が、少しずつ濃くなってきた。
 私の声が届いているのだ。踏切の線路が、微かに光を帯び始めていた。

「本当ですか?」
「本当です!だから帰ってきてください!一緒にいましょう!」

 ミツキさんが一歩、こちらに向かって歩いてきた。
 光の中から、少しずつ現実に戻ろうとしている。

 その時、背後から声がした。

「何やってるの」

 振り返ると、サヤカさんが立っていた。
 深夜なのに、きちんとメイクをして、おしゃれな服を着ている。
 まるでこの時間にここに来ることが分かっていたかのように。

「サヤカさん?どうして、ここに?」
「あなたこそ、こんな時間に何してるの?」

 サヤカさんはにやりと笑った。

 そう……。
 彼女は図書室で私と出会った時、私の調べていた内容を見たのだ。

 でも、踏切の向こうのミツキさんの姿を見ると、一瞬表情が固まった。

「あれ……本当に……」

 サヤカさんの声が小さくなった。
 でもすぐに我に返ったように、スマホを取り出した。

「すごいじゃない。これ、本物なのね」

 私は嫌な予感がした。ミツキさんの姿が、サヤカさんの声に反応して少し後ずさりしているのが見えた。

「やめてください。今は静かにしていてください」
「どうして?こんなすごいもの、ライブ配信して、みんなに見せなきゃもったいないじゃない」

 サヤカさんがスマホを構えた。画面が青白く光って、彼女の顔を照らしている。

「ライブ配信?」
「もちろん。これは歴史的瞬間よ」

 私は慌てた。これは儀式なのだ。他の人に見られてはいけない。
 調べた記事にも、純粋な善意による呼びかけが必要だと書いてあった。

「お願いです、やめてください!ミツキさんが帰れなくなってしまいます!」
「大丈夫よ。みんなで応援すれば、もっと効果があるかもしれないじゃない」

 でもサヤカさんはライブ配信を開始してしまった。

「皆さん、すごいものをお見せします。今、実際に異世界から誰かが帰ってこようとしているんです」

 私は絶望した。ミツキさんの姿が、また薄くなり始めている。
 多くの人の視線が、彼女を異世界に押し戻そうとしているのだ。

 でも時間がない。もう二時四十四分を過ぎてしまう。
 私は意を決して、大声で叫んだ。

「如月ミツキさん!帰ってきてください!私が友達になります!」

 しかし、サヤカさんがスマホの画面を見ながら大声で読み上げ始めた。

「あ、コメントがすごい勢いで来てる。こんな時間なのに!おお、『これ本物?』『作り物でしょ』『すごい』『怖い』って」

 サヤカさんの声に興奮が混じっている。

「みんな、これは本物よ。如月ミツキさんという子が異世界に迷い込んで、今帰ってこようとしてるの」

 サヤカさんがスマホに話しかけている。
 私も必死にミツキさんに呼びかけ続けた。

「ミツキさん!友達になりましょう!帰ってきてください!」

 でも、サヤカさんがさらに大きな声で画面に向かって話し始めた。

「でも待って、コメント欄に『嘘つき』『自作自演』って書いてる人たちがいる。どう思います、皆さん?」

 私はサヤカさんのスマホを取り上げようとした。
 でも、さっと彼女は避けて、さらに興奮して叫んだ。

「本当かもしれないし、嘘かもしれない。でも面白いでしょ?」

 そして突然、画面を見ながら大声で叫んだ。

「如月ミツキ!みんなが見てるよ!でも半分の人は嘘だと思ってる!どうするのよ!」

 その瞬間、空気が激しく震えるような感覚があった。
 そして、踏切の向こうから、強烈な紫色の光が溢れ出した。

 ミツキさんの姿がはっきりと現れたけれど、彼女の表情は苦しそうで、何かに引っ張られているような様子で、必死に手を伸ばしている。

「ミツキさん!」

 私は手を伸ばした。でもサヤカさんが画面のコメントを読み上げ続けていた。

「『帰ってこなくていい』『騙された』『注目されたいだけ』って書いてる人がいるわよ!」

 サヤカさんがさらに声を上げた。

「ねえ、ミツキ!みんなあなたのこと信じてないって言ってるけど、どう思うの!?」
「やめてください!」

 私は叫んだ。でもサヤカさんの興奮は止まらなかった。

「帰りたい……でも……」

 ミツキさんの か細い声が聞こえた。

「でもみんな私を嫌ってる……信じてくれない……」

 サヤカさんがついに決定的な言葉を投げつけた。

「そうよ、みんな嘘だと思ってる!如月ミツキ、あなたは嘘つきよ!」

 私は愕然とした。

「何するんですか!」

 でもサヤカさんは画面に向かって叫び続けた。

「皆さん、どう思います?この子は本当に助けが必要な子でしょうか?それとも注目されたいだけのぶりっ子でしょうか?」

 ミツキさんの姿が薄くなっていく。
 サヤカさんとライブ配信の視聴者たちの疑念が、彼女を異界へと引き戻している。

「そんなことありません!私は信じています!ずっと待ってます!」

 私は必死に叫んだ。でも疑いの声の方が強く、圧倒的だった。

 ミツキさんの姿は、ついに光の中に消えてしまった。
 そしてその瞬間、踏切の向こうに巨大な暗闇が口を開けた。

 暗い空間が現実世界に侵食してきた。そこから異様な音が聞こえてくる。
 まるで何かが這い回るような音、金属が軋むような音、そして遠くから聞こえる電車の汽笛のような音。

 風もないのに、不自然で冷たい風が私たちに向かって吹いてきた。
 その風には、どこか腐敗したような匂い。

 サヤカさんの顔が急に青ざめた。

「え……何、これ……本当に……」

 その瞬間、暗い空間からの見えない力がサヤカさんを引っ張り始めた。
 彼女の髪が、見えない手に掴まれているかのように宙に舞った。

「きゃあ!嘘でしょ!助けて!」

 サヤカさんのスマホが地面に落ちる。

「助けて!引っ張られる!」

 サヤカさんが私に手を伸ばした。
 私は迷わず、彼女の手を掴んだ。今まで色々あったけど、見捨てることはできない。

 でも暗い空間の力は想像以上に強かった。
 私たちは両方とも、その暗闇に引きずり込まれそうになった。
 足元の地面が、まるで液体のように波打っていた。
 現実とは思えない。

「離して!離してよ!本当だったなんて!」

 サヤカさんが叫んだ。でも私は手を離さなかった。
 彼女の手は氷のように冷たく、まるで生気が抜けていくような感覚があった。

「頑張って!負けちゃダメです!」

 しかし最終的に、私の力は足りなかった。
 サヤカさんは暗闇の中に吸い込まれていき、私は踏切に一人取り残された。

 彼女が消えた瞬間、まるで何かが爆発したような音が響いて、辺りが嘘のように静寂に戻った。
 そして持ち主を失ったサヤカさんのスマホは、バッテリーが切れたのか、画面が真っ暗になっていた。

 私は膝をついて踏切を見つめた。
 すべてが終わってしまった。
 ミツキさんも、サヤカさんも、もう帰ってこない。

 それどころか、私の行動がすべてを悪化させてしまった。

 空を見上げると、普通の夜空が広がっている。
 星も雲も、いつもと変わらない。まるで今起きたことが嘘だったかのように、平和な夜だった。

 でも私の心には、深い絶望が押し寄せていた。
 救えなかった。それどころか、サヤカさんまで巻き込んでしまった。すべて私のせいだった。

 朝が来るまで、私は一人でそこに座り続けた。
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