マカロン文庫10周年記念企画限定SS
限定SS:美希みなみ『身代わり婚~偽装お見合いなのに御曹司に盲愛されています~』
『もう一つの恋物語』
小さくて、守ってあげなければいけない――そう思っていた妹が、昨日、結婚した。
それも、私が身勝手に逃げてしまったお見合いで出会った人と。
手を止めて、昨日の妹の姿を思い出していた、そのとき。
「持田、この間の件、見事だったな」
ノックの音がして、扉がわずかに開いた。
聞き慣れた声が耳に届き、私は自然と顔を上げて、目の前の男性を見据えた。
ここ、沢田法律事務所は、丸の内の一角にそびえる高層ビルの二十五階にある。
ガラス張りのビルのロビーには大理石の床が広がり、スーツ姿のスタッフがきびきびと対応している。
エレベーターの扉が開くと、静かで洗練された空間が広がり、クラシックがほのかに流れる応接スペースを抜けた先に、それぞれの執務室が並んでいる。
都内でも名の知れたこの事務所を、ここまで大きくしたのが所長の沢田勇作だ。
五十を過ぎた今も現役で案件を抱え、企業顧問から刑事事件まで、幅広く手がけている。
案件の数も多く、彼の下で働く弁護士の数も相当なものだ。
その中で、三十一歳という若さで“事務所のエース”と呼ばれているのが、この人――松田瑞穂。
女性のような名前とは裏腹に、彼の視線は鋭く、法廷では検察側を徹底的に追い詰める迫力がある。
正直、「弁護士よりも検察官のほうが向いてるんじゃないですか?」と過去に尋ねたことがあるけれど、そのとき彼は短く言った。
「俺は、弁護士だ」
そう言い切るような、揺るぎない強い人――。
「ありがとうございます」
それだけを、表情を変えずに言うと、松田さんは眉をひそめた。
「長期戦だったから、休みもずっと返上だったろ? ……でも、もう次の案件にのめり込んでるのか」
少し呆れたような、ため息交じりの声で彼が言う。
私は松田さんに視線を向けず、ぽつりと返す。
「昨日は、休みをもらいました。……妹の結婚式だったので」
礼華の幸せそうな笑顔が、ふと脳裏によみがえる。
どうしてか、いつになく感傷的になっていた私は、そんな余計なことをつい口にしてしまった。気づいた瞬間、ハッとする。
「へえ。妹さん、結婚したんだ」
その言葉の裏に――「姉より先に?」という含みを感じたのは、私の被害妄想かもしれない。
でも、先回りして私は言った。
「ええ。姉の私より先に、ね」
彼をまっすぐに見据えると、松田さんは小さく、ため息をついた。
「……まだ、言ってない」
こんなやりとりはいつものことで、松田さんは私に視線を向けると、小さくため息をついた。
この人は、事務所に入った頃から私の指導を任されていた。だから、もう付き合いは長い。
冷たそうに見えるのに、どこまでもクライアントのことを考える、正義感の強い人。
そんな彼を、私は尊敬している。……けれど、元来の負けず嫌いも手伝って、いつもどこかツンとした態度を取ってしまう。
本当の私は、弱くて、情けなくて、いつも失敗しないか不安で、石橋を叩いて渡るようなタイプの人間だ。
両親に言われて決まった見合いも、ちゃんと行くつもりだった。
しかし、結局はどうしても外せない仕事で、妹に押し付けてしまった。
謝らなきゃいけないのに、最後には「私のおかげで幸せになれたね」なんて、そんな最低なことを言ってしまった。
本当に、どうしようもない性格をしている自覚はある。
「別に、早く結婚するのがいいってわけでもないだろ?」
フォローなのか、松田さんは淡々とそう言った。
「そうですね。……今、担当してるのは離婚調停ですし」
こじれにこじれまくった夫婦の調書を見つつ、私は少し苦笑して彼を見上げた。
「そんな夢のないことを言うこともないだろ」
そう言いながら、私の部屋の壁にもたれかかる。その姿に視線を向けた。
身長は180センチはあるだろうか。ジムに通っているせいか、スーツ越しにもわかる均整の取れた体つき。
顔は芸能人も顔負けなほど整っていて、薄い色素の茶色い瞳がまた絶妙に似合っている。
この事務所に勤める女性たちは、誰もが彼に憧れている。
そう、私もそのうちの一人――
バカみたいに、ずっと片思いをしている。
好意を向ける女性にはきっぱりと線を引き、仕事に恋愛を持ち込まない。そのポリシーを徹底して貫く彼。
私は、こんなかわいげのない性格だし、松田さんが私に対して恋愛感情など微塵もないことは理解している。
後輩ということも手伝って、彼はこんなふうに気軽に話しかけてくれるが。
でも、それが、辛い。
手に入らないのに、ずっと片思いなんて、しんどい。
だから、見合いに行こうと思った――それは、嘘じゃない。
……結局、一番やってはいけない“ドタキャン”をしてしまったのだが。
「別に夢がないわけじゃないですよ。そのお見合いも、本当は私が行くはずだったんですし」
「え?」
私の言葉の意味をすぐには理解できなかったのか、松田さんは珍しく少しだけ驚いた表情を見せた。
「妹じゃなく、私が見合いに行けていたら……昨日、結婚式を挙げていたのは、私だったかもしれないですし」
いつもなら、淡々と彼のこんな話に乗ることはないし、自分のプライベートを話すような失態をすることなどなかった。
弁護士として、ポーカーフェイスを作ることも簡単なはずなのに。
でも、やはり昨日の結婚式は、私の中で少なからず何かを変えたのかもしれない。
だからと言って、こんなことを彼に言って何になるんだろう。
「あっ、こんな話すみません。それで? 何か用事でした?」
いつも通りの無表情を貼り付けつつ、彼に問いかける。
「いや。通りかかったからねぎらいを」
「そうでしたか。ありがとうございます」
慇懃無礼とはこういうことかもしれないが、早く出て行ってほしい、そんな思いを込めて笑顔を作った。
しかし、松田さんは部屋を出ていくことはなく、少し思案するような表情をしていた。
「……結婚、したかったのか? 意外だな」
私に問いかけたのか、独り言のようなつぶやきのような、その言葉に、私は少しだけ苛立ちを覚える。
「私をなんだと思ってるんですか? 結婚すらできない女で、ただの仕事人間だとでも?」
彼に視線を向けずに言ったその言葉は、自分でも気づかぬうちに、声音が低くなっていた。
「持田?」
こんな感情的な言葉を発したことに驚いたようで、松田さんは私に一歩近づいた。
それだけで胸がはねる。高嶺の花だとか、才色兼備だとか、恋愛豊富そうだとか、それはみんな、私を見たイメージだ。
本当の私は、この人との距離に一喜一憂するような人間なのに……。
そのとき。
「松田!!」
所長の声が廊下から響いた。ドアのほうを見ると、松田さんを手招きしている。
きっとまた、大口の依頼が来たのだろう。
私が何も言わずに視線を下に向けると、彼の小さな吐息が耳に届く。
少しして、コツコツと革靴の音を響かせながら、松田さんは部屋を出ていった。
「……もう、いや」
私はそう呟いた。
その日、かなり久しぶりにクライアントに連絡ミスをして、謝罪と対応に追われ、事務所に戻ったのは21時を過ぎていた。
昼食も結局食べていない私は、気力も体力もゼロに近くなっていた。
「だめだ、もう帰ろう」
そう思うと、私はバッグを持ってエレベーターに向かった。そこに、松田さんが立っていた。
ちょうど、彼も帰りだったんだろうか。
「お疲れさまです」そう言ってみても、なんとなく午前中のことが気まずくて、俯きつつ口にした。
「ああ」
彼もそれだけを返すと、私はエレベーターの回数表示の数字を見つめた。
音もなくドアが開くと、彼が私を先に促す。
――こんなところは女扱いするんだから。
そう思いながら、先に入って「1」のボタンを押そうとしたが、それを阻止された。
「松田さん?」
なぜか彼は、私の手を右手で押さえて、左手で地下のボタンを押した。
手は触れたままで、意味がわからない。私は帰るつもりなのに。
「あの、私は一階で降りるんですけど」
そう口にするも、松田さんは何も言わず、私の手を握ったままだった。
意味がわからないし、こんなにはっきりと手を握られたのは初めてで、まともに思考が働かない。
エレベーターが開くと、なぜか無言で彼の車の助手席に乗せられてしまう。
なんとなく、雰囲気が怒っている気がして、私は黙ってその場にいるしかなかった。
なんだかんだ、仕事のときに見せる冷静で冷たい視線を、これまで何度も見てきたけれど、
それが自分に向けられたことがなかったのだと、初めて知った。
車は夜の東京の街を走っているが、どこに向かっているのかわからない。
送ってくれるのだろうか、そう思ったが、家に帰る方向とはまったく逆だ。
いつもは饒舌で、うるさいぐらいと言われているのに、何も言葉が出てこない。
無言のまま、数十分車が走ったころ、立派な格子のゲートと、高い塀に囲まれた場所で車は止まった。
自動で上がっていくゲート。それを当たり前のように、松田さんの車が中に入っていく。
高級車ばかりが並ぶ駐車場に驚いていると、車が止まり、松田さんが小さく息を吐いたのが分かった。
「降りて」
「……どうして?」
やっとその言葉を紡いだが、私の問いは軽くスルーされ、松田さんは車を降りて助手席に回り、ドアを開けて私を車から降ろす。
そして、そのまま建物へと入っていく。いくつかのセキュリティが施された、高級低層レジデンスのようで、迷子になりそうだ。
帰ることすらできなさそうで、私は「松田さん!!」それしか言えなかった。
やがて、大きなブラウンの扉を開け、私をその部屋に入れた。
パタンという小さな音と、鍵が閉まる小さな電子音が響いた。
その瞬間、私は広い玄関の壁を背に、松田さんに見下ろされていた。
その瞳は怒りなのか、瞳の奥にほの暗い色が見えた気がして、ヒュッと息が漏れた。
「彩音」
長く一緒にいたが、初めて下の名前を呼ばれた私は、とうとう涙が零れ落ちていた。
怒った彼が怖いのか、どうしてこんな状況になっているのか――それでもやっぱり、好き。
そんな気持ちがぐちゃぐちゃになっていく。
「やめて……。どうしてこんなことを」
見合いをして、この人を諦める。そう思ったのに。もう、好きなのは辛い。
彼の手が私の頬に触れ、流れた涙をぬぐう。その優しさに戸惑いながら、私はそっと視線を上げた。
気づけば、彼の顔が近づいてきて、次の瞬間、唇がふさがれていた。
――キスされ……てる?
今まで感じていた怒りをぶつけるような、そんなキスじゃなく、優しく触れるだけのもの。
その意味が分からず、唇が離れたときには、涙も止まり、私は唇にそっと指を添えた。
「好きだ、なんだ――ずっと。お前が仕事じゃなく、結婚を考えるときがくるまで見守ってきたのに―――」
苦しげにも聞こえるその声に、私は目を瞬かせた。
「見合いをするぐらいなら、俺が全力で口説く」
きっぱりと言い切った松田さんに、私は力が抜けていく。
そんな私の身体を支えるように抱きしめると、彼は私の首元に顔をうずめて、大きく息を吐いた。
「怖がらせた。悪い」
少し弱々しい声に、私は少しずつ緊張がほどけていく。
「いえ……」
怖かったのは、怒っていたこと。何かしてしまって嫌われたかもしれないということだった。
今、好きだと言ってもらえたことで、私はどこかふわふわとした気持ちしかなかった。
ただ、抱きしめられている腕の中は温かくて、夢じゃないということがうれしかった。
「ゆっくり待つつもりで、ずっとそばにいるのに、見合いとかいうから頭に血が上った」
そう静かに言うと、そっと松田さんは距離を取り、私を見つめた。
「誰かと見合いをするなら、俺としないか?」
真面目なその言葉に、つい笑ってしまった。
「松田さんと私がお見合いをするんですか?」
――もう知り合ってるのに? こんなに一緒にいるのに?
敏腕弁護士様の言う言葉とは思えず、私は苦笑する。
「いや?」
「いやです」
少しだけ意地を張りたくて、そう言うと松田さんは私からゆっくりと手を放した。
「悪……」
謝ろうとしたところを、勇気を出して、そっとキスをした。
「ずっと好きでした」
そう伝えると、松田さんは一瞬動きを止めたあと、
「じゃあ、結婚前提に付き合って」
そう、笑った。
<終>
小さくて、守ってあげなければいけない――そう思っていた妹が、昨日、結婚した。
それも、私が身勝手に逃げてしまったお見合いで出会った人と。
手を止めて、昨日の妹の姿を思い出していた、そのとき。
「持田、この間の件、見事だったな」
ノックの音がして、扉がわずかに開いた。
聞き慣れた声が耳に届き、私は自然と顔を上げて、目の前の男性を見据えた。
ここ、沢田法律事務所は、丸の内の一角にそびえる高層ビルの二十五階にある。
ガラス張りのビルのロビーには大理石の床が広がり、スーツ姿のスタッフがきびきびと対応している。
エレベーターの扉が開くと、静かで洗練された空間が広がり、クラシックがほのかに流れる応接スペースを抜けた先に、それぞれの執務室が並んでいる。
都内でも名の知れたこの事務所を、ここまで大きくしたのが所長の沢田勇作だ。
五十を過ぎた今も現役で案件を抱え、企業顧問から刑事事件まで、幅広く手がけている。
案件の数も多く、彼の下で働く弁護士の数も相当なものだ。
その中で、三十一歳という若さで“事務所のエース”と呼ばれているのが、この人――松田瑞穂。
女性のような名前とは裏腹に、彼の視線は鋭く、法廷では検察側を徹底的に追い詰める迫力がある。
正直、「弁護士よりも検察官のほうが向いてるんじゃないですか?」と過去に尋ねたことがあるけれど、そのとき彼は短く言った。
「俺は、弁護士だ」
そう言い切るような、揺るぎない強い人――。
「ありがとうございます」
それだけを、表情を変えずに言うと、松田さんは眉をひそめた。
「長期戦だったから、休みもずっと返上だったろ? ……でも、もう次の案件にのめり込んでるのか」
少し呆れたような、ため息交じりの声で彼が言う。
私は松田さんに視線を向けず、ぽつりと返す。
「昨日は、休みをもらいました。……妹の結婚式だったので」
礼華の幸せそうな笑顔が、ふと脳裏によみがえる。
どうしてか、いつになく感傷的になっていた私は、そんな余計なことをつい口にしてしまった。気づいた瞬間、ハッとする。
「へえ。妹さん、結婚したんだ」
その言葉の裏に――「姉より先に?」という含みを感じたのは、私の被害妄想かもしれない。
でも、先回りして私は言った。
「ええ。姉の私より先に、ね」
彼をまっすぐに見据えると、松田さんは小さく、ため息をついた。
「……まだ、言ってない」
こんなやりとりはいつものことで、松田さんは私に視線を向けると、小さくため息をついた。
この人は、事務所に入った頃から私の指導を任されていた。だから、もう付き合いは長い。
冷たそうに見えるのに、どこまでもクライアントのことを考える、正義感の強い人。
そんな彼を、私は尊敬している。……けれど、元来の負けず嫌いも手伝って、いつもどこかツンとした態度を取ってしまう。
本当の私は、弱くて、情けなくて、いつも失敗しないか不安で、石橋を叩いて渡るようなタイプの人間だ。
両親に言われて決まった見合いも、ちゃんと行くつもりだった。
しかし、結局はどうしても外せない仕事で、妹に押し付けてしまった。
謝らなきゃいけないのに、最後には「私のおかげで幸せになれたね」なんて、そんな最低なことを言ってしまった。
本当に、どうしようもない性格をしている自覚はある。
「別に、早く結婚するのがいいってわけでもないだろ?」
フォローなのか、松田さんは淡々とそう言った。
「そうですね。……今、担当してるのは離婚調停ですし」
こじれにこじれまくった夫婦の調書を見つつ、私は少し苦笑して彼を見上げた。
「そんな夢のないことを言うこともないだろ」
そう言いながら、私の部屋の壁にもたれかかる。その姿に視線を向けた。
身長は180センチはあるだろうか。ジムに通っているせいか、スーツ越しにもわかる均整の取れた体つき。
顔は芸能人も顔負けなほど整っていて、薄い色素の茶色い瞳がまた絶妙に似合っている。
この事務所に勤める女性たちは、誰もが彼に憧れている。
そう、私もそのうちの一人――
バカみたいに、ずっと片思いをしている。
好意を向ける女性にはきっぱりと線を引き、仕事に恋愛を持ち込まない。そのポリシーを徹底して貫く彼。
私は、こんなかわいげのない性格だし、松田さんが私に対して恋愛感情など微塵もないことは理解している。
後輩ということも手伝って、彼はこんなふうに気軽に話しかけてくれるが。
でも、それが、辛い。
手に入らないのに、ずっと片思いなんて、しんどい。
だから、見合いに行こうと思った――それは、嘘じゃない。
……結局、一番やってはいけない“ドタキャン”をしてしまったのだが。
「別に夢がないわけじゃないですよ。そのお見合いも、本当は私が行くはずだったんですし」
「え?」
私の言葉の意味をすぐには理解できなかったのか、松田さんは珍しく少しだけ驚いた表情を見せた。
「妹じゃなく、私が見合いに行けていたら……昨日、結婚式を挙げていたのは、私だったかもしれないですし」
いつもなら、淡々と彼のこんな話に乗ることはないし、自分のプライベートを話すような失態をすることなどなかった。
弁護士として、ポーカーフェイスを作ることも簡単なはずなのに。
でも、やはり昨日の結婚式は、私の中で少なからず何かを変えたのかもしれない。
だからと言って、こんなことを彼に言って何になるんだろう。
「あっ、こんな話すみません。それで? 何か用事でした?」
いつも通りの無表情を貼り付けつつ、彼に問いかける。
「いや。通りかかったからねぎらいを」
「そうでしたか。ありがとうございます」
慇懃無礼とはこういうことかもしれないが、早く出て行ってほしい、そんな思いを込めて笑顔を作った。
しかし、松田さんは部屋を出ていくことはなく、少し思案するような表情をしていた。
「……結婚、したかったのか? 意外だな」
私に問いかけたのか、独り言のようなつぶやきのような、その言葉に、私は少しだけ苛立ちを覚える。
「私をなんだと思ってるんですか? 結婚すらできない女で、ただの仕事人間だとでも?」
彼に視線を向けずに言ったその言葉は、自分でも気づかぬうちに、声音が低くなっていた。
「持田?」
こんな感情的な言葉を発したことに驚いたようで、松田さんは私に一歩近づいた。
それだけで胸がはねる。高嶺の花だとか、才色兼備だとか、恋愛豊富そうだとか、それはみんな、私を見たイメージだ。
本当の私は、この人との距離に一喜一憂するような人間なのに……。
そのとき。
「松田!!」
所長の声が廊下から響いた。ドアのほうを見ると、松田さんを手招きしている。
きっとまた、大口の依頼が来たのだろう。
私が何も言わずに視線を下に向けると、彼の小さな吐息が耳に届く。
少しして、コツコツと革靴の音を響かせながら、松田さんは部屋を出ていった。
「……もう、いや」
私はそう呟いた。
その日、かなり久しぶりにクライアントに連絡ミスをして、謝罪と対応に追われ、事務所に戻ったのは21時を過ぎていた。
昼食も結局食べていない私は、気力も体力もゼロに近くなっていた。
「だめだ、もう帰ろう」
そう思うと、私はバッグを持ってエレベーターに向かった。そこに、松田さんが立っていた。
ちょうど、彼も帰りだったんだろうか。
「お疲れさまです」そう言ってみても、なんとなく午前中のことが気まずくて、俯きつつ口にした。
「ああ」
彼もそれだけを返すと、私はエレベーターの回数表示の数字を見つめた。
音もなくドアが開くと、彼が私を先に促す。
――こんなところは女扱いするんだから。
そう思いながら、先に入って「1」のボタンを押そうとしたが、それを阻止された。
「松田さん?」
なぜか彼は、私の手を右手で押さえて、左手で地下のボタンを押した。
手は触れたままで、意味がわからない。私は帰るつもりなのに。
「あの、私は一階で降りるんですけど」
そう口にするも、松田さんは何も言わず、私の手を握ったままだった。
意味がわからないし、こんなにはっきりと手を握られたのは初めてで、まともに思考が働かない。
エレベーターが開くと、なぜか無言で彼の車の助手席に乗せられてしまう。
なんとなく、雰囲気が怒っている気がして、私は黙ってその場にいるしかなかった。
なんだかんだ、仕事のときに見せる冷静で冷たい視線を、これまで何度も見てきたけれど、
それが自分に向けられたことがなかったのだと、初めて知った。
車は夜の東京の街を走っているが、どこに向かっているのかわからない。
送ってくれるのだろうか、そう思ったが、家に帰る方向とはまったく逆だ。
いつもは饒舌で、うるさいぐらいと言われているのに、何も言葉が出てこない。
無言のまま、数十分車が走ったころ、立派な格子のゲートと、高い塀に囲まれた場所で車は止まった。
自動で上がっていくゲート。それを当たり前のように、松田さんの車が中に入っていく。
高級車ばかりが並ぶ駐車場に驚いていると、車が止まり、松田さんが小さく息を吐いたのが分かった。
「降りて」
「……どうして?」
やっとその言葉を紡いだが、私の問いは軽くスルーされ、松田さんは車を降りて助手席に回り、ドアを開けて私を車から降ろす。
そして、そのまま建物へと入っていく。いくつかのセキュリティが施された、高級低層レジデンスのようで、迷子になりそうだ。
帰ることすらできなさそうで、私は「松田さん!!」それしか言えなかった。
やがて、大きなブラウンの扉を開け、私をその部屋に入れた。
パタンという小さな音と、鍵が閉まる小さな電子音が響いた。
その瞬間、私は広い玄関の壁を背に、松田さんに見下ろされていた。
その瞳は怒りなのか、瞳の奥にほの暗い色が見えた気がして、ヒュッと息が漏れた。
「彩音」
長く一緒にいたが、初めて下の名前を呼ばれた私は、とうとう涙が零れ落ちていた。
怒った彼が怖いのか、どうしてこんな状況になっているのか――それでもやっぱり、好き。
そんな気持ちがぐちゃぐちゃになっていく。
「やめて……。どうしてこんなことを」
見合いをして、この人を諦める。そう思ったのに。もう、好きなのは辛い。
彼の手が私の頬に触れ、流れた涙をぬぐう。その優しさに戸惑いながら、私はそっと視線を上げた。
気づけば、彼の顔が近づいてきて、次の瞬間、唇がふさがれていた。
――キスされ……てる?
今まで感じていた怒りをぶつけるような、そんなキスじゃなく、優しく触れるだけのもの。
その意味が分からず、唇が離れたときには、涙も止まり、私は唇にそっと指を添えた。
「好きだ、なんだ――ずっと。お前が仕事じゃなく、結婚を考えるときがくるまで見守ってきたのに―――」
苦しげにも聞こえるその声に、私は目を瞬かせた。
「見合いをするぐらいなら、俺が全力で口説く」
きっぱりと言い切った松田さんに、私は力が抜けていく。
そんな私の身体を支えるように抱きしめると、彼は私の首元に顔をうずめて、大きく息を吐いた。
「怖がらせた。悪い」
少し弱々しい声に、私は少しずつ緊張がほどけていく。
「いえ……」
怖かったのは、怒っていたこと。何かしてしまって嫌われたかもしれないということだった。
今、好きだと言ってもらえたことで、私はどこかふわふわとした気持ちしかなかった。
ただ、抱きしめられている腕の中は温かくて、夢じゃないということがうれしかった。
「ゆっくり待つつもりで、ずっとそばにいるのに、見合いとかいうから頭に血が上った」
そう静かに言うと、そっと松田さんは距離を取り、私を見つめた。
「誰かと見合いをするなら、俺としないか?」
真面目なその言葉に、つい笑ってしまった。
「松田さんと私がお見合いをするんですか?」
――もう知り合ってるのに? こんなに一緒にいるのに?
敏腕弁護士様の言う言葉とは思えず、私は苦笑する。
「いや?」
「いやです」
少しだけ意地を張りたくて、そう言うと松田さんは私からゆっくりと手を放した。
「悪……」
謝ろうとしたところを、勇気を出して、そっとキスをした。
「ずっと好きでした」
そう伝えると、松田さんは一瞬動きを止めたあと、
「じゃあ、結婚前提に付き合って」
そう、笑った。
<終>