マカロン文庫10周年記念企画限定SS

限定SS:夏雪なつめ『イジワルな彼の甘い罠』

『イジワルな夫の甘いサプライズ』

 セフレという長年続いていた関係に終止符を打ち、私と航は恋人を飛び越えて夫婦となった。
 そしてそれから2年ほどが経った2月のある月曜日。
 私は銀座にあるカフェでハルミとともにランチタイムを過ごしていた。
 白を基調としたシックな内装の店内は奥に個室がいくつか用意されており、その一室で私とハルミは向かい合う形で席についている。
「ん〜……ここのケーキおいしい!さすが、連日満席の人気店」
「でしょ?一回来てから早希も連れてきてあげたかったの。表は一般席だけど、こっちの奥の個室は子供連れ専用だから早希もひーくんも過ごしやすいかなって」
 ハルミが『ひーくん』と呼びながら見た私の隣では、ベビーチェアに座った小さな男児がキャッキャッと楽しそうに笑った。
「うん、本当ありがたい。聖も最近食べ物掴むようになってきたから、外食もお店選ぶようにしててさ」
「ついこの前生まれたばっかりだと思ってたのにねぇ、子供の成長って早いわぁ」
 ねー、と笑う私たちの横で言ってるそばから聖は食器の中のバナナを手で握った。
 妊娠が発覚し、航と結婚して私は遠野早希となった。
 それからはバタバタと忙しく、あっという間に出産を迎えて長男である聖が生まれた。
 聖は夜泣きもあまりせず、ミルクもよく飲み離乳食もよく食べ、よく笑う手のかからない子だ。さらにお互いの実家のサポートもあり、私はありがたいことに穏やかに産後の毎日を過ごせた。
 今では会社にも復帰し、リモート業務中心の部署に異動させてもらい育児と仕事を両立させている。
「航は今日も仕事?」
「うん。海外ロックバンドの来日公演の撮影があるんだって」
「へぇ。あーあ、早希はママになっちゃうし、航は有名カメラマンとか言われちゃってるし……なんだか別世界の人って感じ」
「なに言ってんの。ハルミこそ今度プロデュースしたコスメが出るんでしょ?一番別の世界の人じゃない」
 そう。この2年ほどで、私たちはそれぞれ変化を迎えていた。
 ハルミは動画サイトで始めた美容系チャンネルが人気となり、『美の伝道師』と呼ばれ度々メディアに出演している。
 澤村くんは会社の業績好調でさらに出世したそうで、昨年奥さんとの間に女の子が生まれた。
 そして航はというと、SNSを開設し写真を掲載したところそれが話題になり、今では大きな仕事も多く抱える有名カメラマンとして名を馳せている。
 けどそんな中でも聖のお世話もよくしてくれているし、育児も家事も協力的だ。こんなに子煩悩で家庭的な人だなんて、セフレだったあの頃は全く思わなかった。
「そういえば、週末の玲ちゃんの式のときはひーくんどうするの?」
「私の実家に預かってもらう。両親も聖にメロメロだし、この子も両親大好きだから抵抗ないみたいで」
「本当いい子ねぇ。あの航の血が入ってるとは思えない、早希に似たのかしら」
 ふふ、と笑って聖の柔らかな頬を指先でつつくハルミに、聖はうれしそうに笑った。
 そう、今週末は澤村くんの結婚式だ。
 入籍自体は随分前にしていたけれど、それから身内の不幸や澤村くんの長期出張、妊娠発覚などさまざまな出来事が重なり予定よりかなり遅れての結婚式となったそう。
 都内の有名高級ホテルで行われる式は、身内や友人はもちろん職場の人も大勢招待する大規模な式になるそうだ。
 その中で当日ハルミは新婦のヘアメイクを、航はカメラマンを、私は受付をと各々協力する手筈になっている。
「二次会のあと何人かで飲みに行こうかって話してるんだけど、早希たちはどうする?」
「私と航はパス。そのホテルに一泊する予定で部屋取ってるし」
 答えながら皿の上に残ったケーキの最後の一欠片を口に含む私に、ハルミはニヤニヤと笑う。
「あらやだ、子供生まれてもラブラブなのね」
「えっ、そうじゃないって!ただせっかくだし、たまにはいいホテル泊まってみたいなってだけで……」
「もう照れなくていいじゃない。楽しみねぇ、ふたり目」
 冷やかすように言われるとつい恥ずかしくて、私は「だから違うって!」と声を上げた。
 二次会まで出ても時間的には聖を迎えに行くことはできる。
 けれど今回どういった風の吹き回しか航から『ついでだしゆっくり一泊するか』と提案があったのだ。
 聖と少しでも一緒に過ごしたい両親も『そうね、たまにはふたりでゆっくり過ごせば』と同意してくれたので、当日はそのホテルで一泊することにした。
 航も航なりに、母親としての毎日に追われる私を気遣ってくれているのだろう。
 航はぶっきらぼうに見えて優しい人だから。普段も私を労ってくれるし、休日は自分が聖を見るから自由に過ごしていいとまで言ってくれる。
 ……けど。
「……ラブラブどころか、産後からずっとレスだし」
 ぼそっとつぶやいた私に、ハルミは目を丸くして固まる。
「えっ……えぇ?そうなの?あの航が?」
「うん。そういう雰囲気にもならないし、こっちが誘おうとしても全然ダメ」
 そう、出産してから私たちの間に行為は一切ない。
 というのも一緒にいるときはやはり聖中心の生活で、そういう雰囲気にもなりにくい。
 昨夜はめずらしく私から航に甘えてみたけれど――。
『……ね、航。たまにはくっついて寝たい』
『どうした、疲れてんのか?なら俺が聖見てるから早く休め』
 航は私の気持ちに気づくこともなく、優しく頭を撫でて寝室へ送り出した。
 優しいところは好きだけど……そうじゃない……!
 思わず「はぁ」と深い溜め息が出る。
「私のこと、もう女として見れないのかも……」
「そんなことないわよ。今がそういう時期ってだけで、そのうちまた――」
 ハルミは明るい口調で否定してくれながら、なにげなしに自身のスマートフォンをいじる。
 するとなにかに目を留めたように言葉を止めた。
「ん?どうかした?」
「あー……いや、その」
 今さっきまでの様子とは明らかに違う、少し気まずそうな顔。めずらしいハルミの表情になにかあったのかと不思議に思い、私はその手元のスマートフォンの画面を覗き込んだ。
 するとそこには、ニュースアプリの記事が表示されている。
 よく見るとそれは『スクープ!人気グラビアアイドル、次の恋のお相手は人気急上昇中のイケメンカメラマン』という見出しとともに、深夜の繁華街を歩く男女の画像だ。
 女性はテレビでよく見る胸の大きなグラビアアイドル。そして男性は……どう見ても航だ。
 酔った様子の彼女が腕を絡めて密着しながら歩いている姿だった。
「な、なにこれ……」
「まぁまぁ、早希落ち着いて!こういうのってデマも多いから!」
「けど巨乳アイドルとくっついて歩いてたのは事実ってことでしょ……」
 必死になだめるハルミの声を聞きながら、私の頭の中は困惑と怒りがぐちゃぐちゃに入り混じりどうしていいかわからなかった。

 航とグラビアアイドルが付き合ってる?
 つまり不倫してるってこと?
 航が仕事で帰りが遅くなったり、飲んで帰ってくることはあるけど……仕事って嘘ついて女性と過ごしてることもある?
 ……ダメだ。ひとりで考えてもしょうがない。
 ここはちゃんと航から話を聞かなくちゃ。
 そう思い、私は意を決して航と直接話し合うことにした。

「……これ、どういうこと」
 その夜。遅い時間に仕事から帰宅した航に、ダイニングテーブルに着いた私はスマートフォンのニュース画面を見せた。
 ニュースの一報は航の耳にも届いていたのだろう。画面をチラッと見ただけで察したように渋い顔をする。
「デマだよ。付き合ってなんてないし、俺たちの数メートル前に彼女の事務所の関係者もいた」
「じゃあなんで腕組んで歩いてるの」
「腕組まれてるんだよ。この時取り掛かってた大きな仕事に関係する相手だから我慢して流してたんだっての」
「へぇ、どうだか。胸の大きい美人にくっつかれて内心よろこんでたんじゃないの?」
 実際はただのヤキモチでしかないのに、嫌味っぽいチクチクとした言葉が出てきてしまう。
 こんな言い方したいわけじゃないのに。
 何年経っても、母親になっても変われない。相変わらず素直になれない自分がいやになる。
「嫌だろうと露骨に拒むわけにはいかないだろ」
「……前だったらちゃんとはっきり拒んでたじゃん」
「前だったら、な。この時はこいつの機嫌損ねて仕事なくなるわけにもいかなかったんだよ」
 呆れたように言うけれど、冷静に言葉を選んでいる分航のほうが私よりずっと大人だ。
 けれどその落ち着きのせいで、私ひとり動揺していると思い知らせて余計この心を荒らした。
「仕事が取れればなんでもいいんだ?そんな営業熱心だったなんて知らなかった」
 さすがにそのひと言に航は一瞬カチンときたように顔をこわばらせる。けれどひと呼吸置いて言いたいことを我慢するように深く溜息をついた。
「はぁ……悪かったよ」
 そんな、まるで子供をあしらうかのような態度はただでさえモヤモヤしていた私の気持ちを逆撫でする。
「もういい、不愉快」
 そして私は席を立つと、聖が眠っている寝室へ向かい荷物をまとめ始めた。
「え?おい、どこ行くんだよ」
「実家。しばらく頭冷やしたいから」
 はっきりと言い切る私に、今はなにを言ってもダメだと察したのか航は強くは引き止めずもどかしそうに頭をかいた。

 わかってるよ。
 そもそもネットなんて興味のなかった航が、宣伝活動のひとつとしてSNSを始めたこと。
 カメラマンとしての腕前を評価され始めてから、ぶっきらぼうな彼なりに精いっぱい営業や人付き合いをして、そこから仕事の幅が広がったこと。
 空気を壊さぬように芸能人の好意をあしらうことも仕事のうちなんだろう。
 それに対してこんなふうに不満をぶつける私は、きっと面倒くさい女でしかない。
 だけど、一瞬でも思ってしまった。
 ほんの少しでも、あの子のことは女として意識したのかなって。
 芸能人と比べたら、私の存在なんてちっぽけなものだと思ったんじゃないかなって。
 不安で、悲しくて切なくて。
 まだ自分ひとりの片想いを続けているような、寂しさが消えない。

 それから私は聖を連れて実家へと戻った。
 突然の私の帰宅に両親は驚いていたけれど、ふたりもまたあの記事を目にしたらしく深くは聞かずに私たちを受け入れてくれた。
 そしてそれから6日が経ち、迎えた日曜日。
 冬にしては気温もあたたかくよく晴れた日、私は買ったばかりのブルーグレーのジャンプスーツに袖を通した。
「よし、支度できた」
 今回は冬の挙式ということで、季節に合わせたくすみカラーの、袖にレースをあしらったパンツスタイルのドレスにした。
 最近は聖を連れているからアクセサリーもつけていなかったけれど、久しぶりに大ぶりのピアスをつけて毛先も軽く巻いてみた。
「早希、支度できたの?」
 洗面所の鏡の前で最終チェックをしていると、そこへ聖を抱っこした母が入ってくる。
「うん。ごめんね、聖任せっきりで」
「いいのよ。ひーくん、ばーばのこと好きだもんねぇ」
 デレデレと目尻を下げる母に、聖もにこにこと笑う。母親である私が出かけようとしているというのに至って平気といった様子に、いい子なようなちょっと寂しいような……。
 複雑な気持ちでいると母は私の背中をポンっと叩く。
「こっちは気にしなくていいから、航くんと仲直りしてきなさいね」
「……別に、航と仲直りしに行くんじゃなくて友達の結婚を祝いに行くんだし」
「またそうやってかわいげないこと言って!お互いに謝ってさっさと仲直りすればいいでしょ!」
 航の名前を出され、ふんっと顔を背けた私に母は呆れたように言う。
「航くん、いい子じゃない。仕事も頑張ってるしひーくんのこともかわいがってるし……今回だって早希がうちに来てからすぐにお母さんに連絡くれたわよ」
「えっ、航が?」
「あの変な記事のことちゃんと謝って、『お騒がせして申し訳ありません』『今は俺が行くと逆効果だから早希と聖のことよろしくお願いします』って」
 航がお母さんに直接連絡だなんて……珍しい。
 けどわざわざちゃんと連絡してくれていたんだ。
「愛想のある人じゃないけど、誠実で素敵じゃない」
「……わかってるけど」
 航が誠実な人だなんてこと、ちゃんとわかってる。
 私の性格を知ったうえでこれ以上ヒートアップしないようにと、この6日間私をそっとしておいたことも。
 そういうところも、好きなんだから。

 自宅を出た私は、式場である東京駅近くにあるホテルへやってきた。
 まずは挙式、そのあと受付の担当をして披露宴か。
 ハルミと航はすでに新婦につきっきりだ。他に高校の同級生は呼んでいないそうだから、私はひとりで挙式の時間までを過ごす。
 通された挙式会場前のロビーでソファに腰を下ろし、辺りを見回した。
 クラシカルな雰囲気と華やかさのある会場は、澤村くん夫婦のイメージによく合うと思った。
 澤村くんも奥さんも、キラキラゴージャスって感じより格式高い上品なイメージだもんね。
 そんなことを考えていると、同じく参列者なのだろうネイビーのスーツを着た男性と目が合った。
 澤村くんの会社関係の人とかかな。
 思わず小さく会釈をすると、彼はにこっと笑ってこちらへ歩いてくる。
「こんにちは、ひとりですか?」
「え?はい」
「俺新郎の同僚なんですけど、会社の奴らまだ来てなくて。よかったら仲良くしません?あ、連絡先交換とか……」
 軽い口調で言いながら、男性はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。
 その様子から出会い目的で来ているのは明らかだ。
 二次会とかでならわかるけど、来て早々……。
「すみません、私結婚してるので」
「えー?またまた。美人だからナンパされ慣れてるんでしょ」
 断るけれど信じていないようだ。仕方なく薬指にはめている指輪を見せようとした……けれど。
 突然伸びてきた手が、彼のスマートフォンを押さえた。
「悪いけど、人の嫁さん口説かないでもらっていいですか」
 その声に顔を上げると、そこにいたのは黒いスーツに首からカメラを下げた航だった。
 前髪を軽く上げ、ヒゲもきれいに剃られている。きちんとした身なりの彼は、男性をじっと見た。
「えっ嫁さんって……あー!本当に既婚者だったんですねー!あっじゃあ失礼しまーす!」
 航の目から圧を感じたのか、男性は慌ててスマートフォンをしまうとごまかすように笑ってその場をあとにした。
 遠ざかる彼の後ろ姿に、航は呆れたように息を吐く。
「……こんなところで口説かれてんじゃねーよ」
「別に好きで声かけられてたわけじゃないし」
 そこは普通『大丈夫だったか?』って心配するところじゃないの?
 相変わらず失礼な言い方。
 ふん、と顔を背けてしまうものの、ふと先ほど航が言った『人の嫁さん』というセリフを思い出す。
「……けど航って、ああいうこと言えるタイプだったんだ」
「うるせぇ」
 照れているのか、航はそっけなく言うと私の額にピンッと軽くデコピンをする。
「いたっ!なに!」
「終わったら話あるから。二次会のあとエントランス集合」
 そしてそれだけを言うと、スタスタとその場を去って行ってしまった。
 話って……やっぱりこの前のことかな。
 落ち着いて話をしようということだろうか。
 けど、また喧嘩になってしまわないだろうか。
 不安にならず、感情的にならずにちゃんと話せるかな。
 ……心配、だ。
 モヤモヤとした気持ちのまま時間は過ぎ、挙式を迎えた。複雑な気持ちのなかでも挙式は素晴らしいもので、真っ白なタキシードを着こなした澤村くんとドレスに身を包んだ奥さんが愛を誓うシーンはとても感動的だった。
 その後の披露宴と二次会も笑顔の絶えない楽しい時間を過ごし、あっという間に一日は過ぎて行った。
 その間もつい、会場内でカメラを構える航にばかり目が向いてしまっていたけれど。

 そして二次会を終え、少しだけアルコールが入った体で私はホテルのエントランスへと向かった。
「おう、お疲れ」
「……お疲れさま」
 そこには機材の入った鞄を肩にかけた航が、私よりひと足先に待っていた。
 今日一日カメラマンに徹していた彼の、横顔や後ろ姿ばかり見ていたせいか、しっかり目が合うと緊張してしまった。
「あの、話って」
「まずは部屋行ってから」
「部屋?」
「一泊するって話だっただろ。部屋、取ってあるから」
 この前あんなふうに揉めたあとなのに……ちゃんと部屋押さえてくれていたんだ。
 航はフロントでチェックインを済ませると、ルームキーを手にエレベーターへ歩き出した。
 連れられるがままあとをついて行くと、航はこちらを振り向くことなく客室へ向かった。
 ホテル自体は3階建てと低めの作りではあるけれど、大正時代から続く歴史のあるホテルだ。
 改装を経てきれいに修繕はされているけれど、内装はレトロな雰囲気で素敵だ。
 そしてやってきたのは、3階突き当たりの部屋だった。
 航はルームキーで部屋を開けると私に先に入るように促した。
「お邪魔しまーす……」
 部屋へ入るとそこにはリビングルームが広がっており、ひと目でここがスイートルームだと察した。
「えっ、ここかなりいい部屋なんじゃない?」
 ふたりで泊まるには贅沢すぎるほどの広さに、テーブルとソファが備えられている。
 スイートルームなんて初めて。すごい立派な部屋。
 思わずリビングを抜け、奥にあるであろうベッドルームへ真っ直ぐ向かった。
「わ、ベッドルームも広い……」
 天井にシャンデリアが輝くベッドルームを覗き込むと、そこにはキングサイズの大きなベッドが置かれている。
 ところがそれだけではなく、ベッドの上やその横などベッド周りは赤やゴールドのバルーンが溢れんばかりに飾られていた。
 え……?これって……。
 バルーンで飾られたベッドの上、中央には大きなバラの花束が置かれている。
 それを見て、噂に聞いたことのあるバルーンサプライズなのだと気づいた。
 そういえば以前、航と観ていたテレビで『最近は友達や恋人の誕生日にバルーン装飾でお祝い』という内容をやっていた。
 そのときは『すごい、こういうのうれしいだろうなぁ』と言った私に航は黙っていたけれど……もしかしてそれを覚えてくれていたのかな。
「これ……航が手配したの?」
「……まぁ」
「なにこれ、すごいじゃん!豪華なバルーンにベッドに花束まである……えっ、バルーンに『Dear Saki』って名前まで入ってる!オーダーしたの!?」
 大きな声ではしゃぎながら、思わずスマートフォンでパシャパシャと写真を撮る。
 そんな私の反応に、航は照れくさそうに仏頂面を見せた。
「あれ?でも私誕生日でもないのになんで?」
「結婚記念日だろ、明日」
「あっ!」
 そういえばそうだった。すっかり忘れてた……。
 航、ちゃんと覚えてくれていたんだ。
 結婚記念日を祝おうと、私が喜びそうなものを考えて、オーダーしてと準備をしてくれていた。
 そんな航の姿はあまりにも意外すぎて、きっと不慣れながらも頑張って用意してくれたんだろう。
「航がこんなサプライズするなんて……意外すぎるでしょ」
 笑って言いながらも、あまりのうれしさに自然と涙が出る。
 意外すぎるけど、それ以上にうれしい。
 ポロポロと涙をこぼす私に航は一瞬驚きながらもこちらへ近づき、伸ばした指先で涙を拭った。
「この前のこと、悪かった。仕事相手とはいえ迂闊だった。もう同じことは絶対しない」
「……うん」
「けどひとつだけわかってほしい。俺が躍起になって仕事を取ってたのは、なによりも早希と聖が大切だからだ」
 それは私が言った『仕事が取れればなんでもいいんだ?』という言葉に対しての答えなのだろう。
「私と、聖が……?」
「あぁ。ふたりが大切だから路頭に迷わせるわけにはいかない。苦しい生活をさせたり、苦労をかけたくないんだ。これは早希の夫として、聖の父親としての俺のプライドだ」
 確かに、独身の頃の航の印象は自分ひとり暮らしていければいいと好きな仕事を受けていた印象だ。
 だけどそれが明らかに変わったのは妊娠発覚後、私と結婚してから。
 それは私たちとの暮らしを支えるため。今回のことも航だっていろいろな気持ちを飲み込んでいたのだろう。
「……けどまぁ、その結果お前のこと悲しませてちゃ意味ないけど」
 少し落ち込むようにつぶやくと、航はこつんと私の額に額をあてた。
 彼の声や言葉から愛情が伝わると同時に、抱えていた不安や心配が一気に溶けていく。
 航は普段から甘い言葉なんて口にしない。不器用だし、言葉も足りないし、たまになにを考えているかわからなくなる。
 だけど今この瞬間深い愛情を感じて、それに応えるように私は航にぎゅっと抱きついた。
「私こそ、ごめん。航が浮気なんてするわけないって分かってるし、信じてるよ。けど……それでもやっぱり不安になって、当たっちゃった」
「不安になる必要なんてないのに」
「だって……私はもう、航にとって女として見られてないのかもって思っちゃったから」
 勇気を出して気持ちを言葉にした。すると航が発したのは「はぁ?」という間抜けな声だった。
「なに言ってんだよ。むしろ、お前のことしか女として見れないけど」
「だって、聖が生まれてからずっと……その、レスだし」
 あぁ、言っちゃった。
 『母親なのにそんなこと考えて』とか、欲求不満とか思われたらどうしよう。
 また小さな不安が込み上げるなか、航は突然両手で私の肩を掴むと目を合わせた。
 そして真剣な顔をして、口を開く。
「知ってるか?出産って全治数ヶ月の事故に遭ったくらいのダメージを体に受けるらしい」
「へ?」
 予想外な彼の言葉に、一瞬意味が分からず気の抜けた声が出た。
 出産のダメージって……よく聞く話ではあるけど、その話が今の話にどうつながるの?
 首を傾げる私に、航は『だから!』と言いたげに肩を掴む手に力を込める。
「ただでさえ命懸けで子供産んでくれたのにそんなダメージ負わせて、さらに産後の育児までしてるようなお前にこれ以上の負担かけられねーだろ!どんなに俺がしたくても!」
 それは要するに、私の体を気遣って行為を控えていたということ。
 先日の『早く休め』の言葉も、本当の本当に、ただの気遣い……。
「……じゃあ、私のために我慢してくれてたってこと?」
「当たり前だろ。押し倒したい気持ち全力で我慢してたっての」
 真剣な顔のまま言う、その様子から嘘や言い訳とは思えなかった。
 そっか、私のため……。
 女として見られないとか、そういうわけじゃなかった。
 航の本心に触れ安堵から「はぁ〜……」と脱力してしまい、寄りかかるようにその胸の中に体を預けた。
「航のバカ……負担なんかじゃないよ」
「え?そうなのか?」
「むしろ、いくらでもぎゅっとしてほしい」
 いつだって、何度だって抱きしめて。不器用なその愛を伝えてほしい。
 たまには私も、素直に気持ちを伝えてみせるから。
「好きだよ、早希」
 航は低い声でささやくと、私をぎゅっと抱きしめたまま優しくキスをした。
 明日朝起きたら、ふたりで聖を迎えに行って、家族3人で家に帰ろう。
 だからそれまで、今夜だけは。私だけのあなたで、あなただけの私で。

 <終>
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