夢境にて
戦闘シーンにドキドキし、日常シーンでクスクス笑い、シリアスシーンで涙する。
その内辿り着いたエンドロールでふう、とひと息ついていると、「先生は、派手な映画が好きなのか?」と斜め後ろから声がし、その場で数ミリ跳び上がってしまった。
「……すまない、驚かせる気はなかったんだが」
振り向いた先にいたのは、申し訳なさそうに眉を下げるアルトで。
映画に浸りきっていた意識を現実に戻せば、大きな長方形のスクリーンと椅子が並ぶシアタールームで、のんびり映画をみていたことを思い出す。
プラネタリウムで眠ったアルトの隣でどうしても眠れなかった私は、どこに入っても良いと許可が出ているのを良いことに、あちこちの娯楽部屋の扉を開けて堪能した末に、シアタールームに行き着いて。
面白そうな映画を片端から観ることに決め、ちょうど2本目が終わったところだった。
「ごめんね、映画に集中してて。声かけてくれたらよかったのに」
「邪魔をしたいわけじゃないからな」
「それはありがたいけど……」
「それに、先生が楽しそうに観ている映画を一緒に観るのは、俺も楽しかった」
どうやらアルトは随分前からこの部屋にいたらしい。
あのシーンが良かった、このシーンで感動したとひとしきり感想戦を繰り広げてから、最初のアルトの疑問を思い出した私は、そういえばアクション映画が好きなのかもしれない、と時間差で考える。
「あんまり意識してはいなかったけど、動きがある画面が好きだなぁ」
「前に教えてくれた先生の好きな映画も、アクション映画だったから、そうだと思って」
「あ、観てくれたんだ。面白かった?」
「ああ。爆弾で何もかも消えていくシーンが一番お気に入りだ」
「へえ、意外。謎解きシーンとかの方が気に入るかなって思ったんだけど」
「そこも良かったが、やはり自分でも考えてしまうからな……答え合わせまで正誤が気になってしまったから、いっそのこと全部ゼロになる爆発がスッキリしたんだ」
「考え方が力強くていいね」
意外とアルトの嗜好はパワータイプなのだろうか。
普段は思慮深い彼の意外な一面に驚いていると、ふとこの部屋に来る前に用意した物の存在を思い出した。
「昨日アルトが朝ご飯を作ってくれたから、今日は私が作ってみたんだけど……良かったら食べない?」
「先生の手料理……?」
「た、食べられるものではあると思うよ」
「いや、出来を疑っているわけじゃない」
……先生の手料理が食べられる日が来るとは、思わなくて。
そう、照れたように少しだけ頬を染めるアルトに、普段の私の料理を普段のアルトが食べることは出来ないことに気付く。
もっと考えて作ればよかったかな、と後悔しかけるけれど、今回は朝食というより別のコンセプトがあるから、と思い直した。
「ところでアルト」
「何だ?」
「食べるにあたって、お願いがあるんだけど」
☆
視界を埋め尽くす桃色……否、文字通り桜色の景色に、思わず惚けた声が漏れる。
周囲に植わった幹から伸び上がり、青空がほとんど見えないくらいにまで上空を占領した桜の花々から、抱えきれない幸せをお裾分けするかのように、花弁を大盤振る舞いされて。
ひらひら舞い散る花びらのひとつに思わず手を伸ばすも、淡い色は留まることなくすり抜けていく。
「感触を設定していないから、触れられないぞ」
「本物みたいで、つい……」
リアルな天体観測さながらの風景になっていたプラネタリウムとここは、本当に同じ場所なのだろうか。
天井も壁も地面もスクリーンなら、映し出すものを変更すればどこにだって行けるのでは?との提案に頷いたアルトが、瞬く間に満開の桜の木々に囲まれた贅沢なお花見空間を演出してくれた結果がこれで。
仕上げとばかりに地面に向かって手を振ったアルトにより、足元に出現したブルーシートだけが、この幻想的な空間に妙なリアリティを生み出していた。
「映像だけでお花見って考えてたけど、降ってくる花弁まで楽しめるなんて」
「ここは現実ではないからな。想像力次第にはなるが、何だって出来る」
「この降ってくる花弁、限界まで増やせたりする?」
「勿論」
口角を上げたアルトの肯定が聞こえたかと思うと、情緒も何もなくドサドサ降り注ぎ始めた滝のような花弁たちに、冗談冗談!と慌てて声を上げる。
一瞬にして視界を埋め尽くした薄紅色はすぐに晴れ、くすくすと笑うアルトがそこに居た。
「多ければ良いってもんじゃないことがわかったね……」
「何事もほどほどが良い。……で、だ」
いたずらっ子の雰囲気を仕舞い込んでそわりと瞳を揺らしたアルトに応え、ずっと持っていた風呂敷をブルーシートに広げる。
有り余る時間を存分に使って私が作ったのは、色とりどりのおにぎりをはじめとしたザ・お花見弁当で。
唐揚げや卵焼きはもちろん、煮物や天ぷらまで、桜を見ながら食べたいものを片っ端から詰め込んだよくばりセットを並べると、向かい側からわぁ、と無意識に漏れたような声が届いた。
「綺麗なお花には美味しいお弁当ってね」
2人でいただきますと手を合わせ、好きなだけ食べてと促すと、紙皿と割り箸を装備したアルトが真っ先に選んだのはいなり寿司で。
もくもくと噛む姿を落ち着かない気持ちで見守っていると、ごくりと呑み込んだアルトは頬を緩めて「美味しい」と呟いた。
「本当!? 良かったぁ……」
「そんなに不安だったのか?」
「最悪美味しくなかったら、アルトが何かこう……情報をいじって美味しくしてくれたりしないかなって思ってた」
「出来なくはないが、例え不味かったとしてもしないぞ」
せっかくの先生の手作りなのに、と零しながら筍の煮物をお皿に移すアルトの気持ちは嬉しいけれど、無理だけはしないでほしい。
私が塩と砂糖を間違えていても、このアルトなら顔にも出さず平然と食べてしまうのではないだろうか。
そんな、あり得そうで考えたくない可能性を首を振って吹き飛ばし、桜でんぶのおにぎりを口に入れながら空を仰ぎ見る。
「……綺麗すぎて、現実感ないかも」
何の前触れもなくこの場所に連れてこられて、ここが天国ですと言い切られてしまえば、信じてしまうだろうと確信できる風景に、ほう、と溜め息が漏れる。
少し考える素振りを見せたアルトは、思いついたとばかりに、ぽんとひとつ手を叩いた。
「降ってくる花弁を、確率で任意の虫にすることはできる」
「嫌な運試しだね」
するか?と首を傾げるアルトに、現実感は決して求めたわけではないと必死に止めていると、不意にアルトの視線が何もないところに彷徨った。
もしかして。
「北斗から連絡だ。ここで出るか?」
「出られるの?」
「そこだ」
アルトの示す方向へと視線を向けると、桜の木の幹が四角に切り取られ、見覚えのある研究室が映し出される。
ひょこりと画面内に入ってきた北斗さんは、「お花見してるの?」と少し驚いたように目を見張った。
「見てくれ北斗。先生のお弁当だ」
「わ、本当だ。美味しそうだね」
「アルトが作ってくれた風景でお花見中です。北斗さんもいかがですか?」
「良いね。コーヒーでお邪魔するよ」
微笑みながら傍らのマグカップを掲げてくれた北斗さんは「ところで本題なんだけど」と眉を寄せる。
「君、そっちに行ってから、一度でも眠ったかい?」
「え?」
向けられた疑念があまりにも唐突すぎて、思わずぱちりと瞬いた。
私の反応で欲していた答えを得たのか、窓の向こうから軽いため息が聞こえる。
「食事をとらなくても良いからといって、睡眠もとらなくて良いとは言っていないよ。アルトだって疲れたら寝るし、ましてや君は生きる世界が違うんだ。ただでさえ負担が大きいのに、眠って回復していないのは大問題なんだよ」
「先生、寝ていなかったのか?」
「うん……何だかんだ、ずっと起きてて……」
寝ようとしていないわけじゃないんだけど、とこちらに来てからの睡眠を思い出す。
一昨日の夜は、寝ようとしたけど眠れなくて。昨日は、プラネタリウムで何度か眠るチャンスがあったけれど、どうにも眠気がやってこなくて。
疲れるようなことをしても、暗い空間でも、寝る気が起きなかったものだから、慣れない空間に神経が昂っているのかなぁと軽く考えていたけれど、流石にそろそろおかしいと思わなければならないタイミングかもしれない。
「人間って、身体がないと眠れなかったり……します?」
「……正直、可能性はある」
深刻な声色の北斗さんは、口元に手を当てて考え込む。
でも、だとすると。
「眠らなくて良いなら良いで、それでも良いんじゃないですか?」
今のところ、特に不調もないし、困っていないと伝えると、北斗さんは厳しい表情のままゆるりと首を横に振った。
「逆だよ。眠れないなら一刻も早く戻ってこないといけない。人間は眠らなかったら狂うんだ」
「狂う……」
こんなに楽しく過ごしているのに?とアルトを振り返ると、俺も同じことは考えた、という視線と僅かな頷きが返ってきた。
「とはいえ、変わらず君を戻す方法は不明のままだ。君の身体は健康だし、そこにいる君も今のところ健康なのに、元の1つに戻る方法だけがわからない」
「どうしましょうね」
「本当にね」
その上タイムリミットまであるだなんて、と項垂れる北斗さんは、一度ぐっと強く目を閉じると「悪いけどアルト」と言いながら顔を上げた。
「今日はずっと付きっきりで、眠るためのありとあらゆる何もかもを試してくれる?」
「えっ」
私、1人で眠れないと思われている……?
そんな小さい子じゃないんだから、と断ろうとしたけれど、アルトが頷く方が早かった。
「ああ。先生は放っておいたらすぐ動き回るからな」
「あれっ……もしかして映画も観ちゃダメだったり……?」
「当たり前でしょ」
「俺の子守唄で我慢してくれ」
湿気を含んだじとりとした視線が2方向から飛んでくるけれど、何もせずにじっとしているのは流石に……ん?
アルトの子守唄……?
「眠るまで歌ってくれる?」
「俺の喉が潰れる前に眠ってくれるか?」
「アルト、嫌なことは断っても良いんだよ」
俺が言うのも何だけど、ほどほどにね、とフォローしてくれる北斗さんに見送られ、外との通信を終える。
さてどこで眠ろうか、と思案するも、ふと見上げた視界いっぱいに映る桜がやっぱりとても魅力的で。
「夜桜とか、どう思う?」
「風情があって良いと思う」
食べ終えたお弁当とブルーシートを片付け、アルトと共に地面に寝転がって、暗くしてもらった世界に浮かび上がる桜をしばらく眺めてから目を閉じる。
隣から聴こえる静かな歌声が、心地よく夜空に溶けていった。
その内辿り着いたエンドロールでふう、とひと息ついていると、「先生は、派手な映画が好きなのか?」と斜め後ろから声がし、その場で数ミリ跳び上がってしまった。
「……すまない、驚かせる気はなかったんだが」
振り向いた先にいたのは、申し訳なさそうに眉を下げるアルトで。
映画に浸りきっていた意識を現実に戻せば、大きな長方形のスクリーンと椅子が並ぶシアタールームで、のんびり映画をみていたことを思い出す。
プラネタリウムで眠ったアルトの隣でどうしても眠れなかった私は、どこに入っても良いと許可が出ているのを良いことに、あちこちの娯楽部屋の扉を開けて堪能した末に、シアタールームに行き着いて。
面白そうな映画を片端から観ることに決め、ちょうど2本目が終わったところだった。
「ごめんね、映画に集中してて。声かけてくれたらよかったのに」
「邪魔をしたいわけじゃないからな」
「それはありがたいけど……」
「それに、先生が楽しそうに観ている映画を一緒に観るのは、俺も楽しかった」
どうやらアルトは随分前からこの部屋にいたらしい。
あのシーンが良かった、このシーンで感動したとひとしきり感想戦を繰り広げてから、最初のアルトの疑問を思い出した私は、そういえばアクション映画が好きなのかもしれない、と時間差で考える。
「あんまり意識してはいなかったけど、動きがある画面が好きだなぁ」
「前に教えてくれた先生の好きな映画も、アクション映画だったから、そうだと思って」
「あ、観てくれたんだ。面白かった?」
「ああ。爆弾で何もかも消えていくシーンが一番お気に入りだ」
「へえ、意外。謎解きシーンとかの方が気に入るかなって思ったんだけど」
「そこも良かったが、やはり自分でも考えてしまうからな……答え合わせまで正誤が気になってしまったから、いっそのこと全部ゼロになる爆発がスッキリしたんだ」
「考え方が力強くていいね」
意外とアルトの嗜好はパワータイプなのだろうか。
普段は思慮深い彼の意外な一面に驚いていると、ふとこの部屋に来る前に用意した物の存在を思い出した。
「昨日アルトが朝ご飯を作ってくれたから、今日は私が作ってみたんだけど……良かったら食べない?」
「先生の手料理……?」
「た、食べられるものではあると思うよ」
「いや、出来を疑っているわけじゃない」
……先生の手料理が食べられる日が来るとは、思わなくて。
そう、照れたように少しだけ頬を染めるアルトに、普段の私の料理を普段のアルトが食べることは出来ないことに気付く。
もっと考えて作ればよかったかな、と後悔しかけるけれど、今回は朝食というより別のコンセプトがあるから、と思い直した。
「ところでアルト」
「何だ?」
「食べるにあたって、お願いがあるんだけど」
☆
視界を埋め尽くす桃色……否、文字通り桜色の景色に、思わず惚けた声が漏れる。
周囲に植わった幹から伸び上がり、青空がほとんど見えないくらいにまで上空を占領した桜の花々から、抱えきれない幸せをお裾分けするかのように、花弁を大盤振る舞いされて。
ひらひら舞い散る花びらのひとつに思わず手を伸ばすも、淡い色は留まることなくすり抜けていく。
「感触を設定していないから、触れられないぞ」
「本物みたいで、つい……」
リアルな天体観測さながらの風景になっていたプラネタリウムとここは、本当に同じ場所なのだろうか。
天井も壁も地面もスクリーンなら、映し出すものを変更すればどこにだって行けるのでは?との提案に頷いたアルトが、瞬く間に満開の桜の木々に囲まれた贅沢なお花見空間を演出してくれた結果がこれで。
仕上げとばかりに地面に向かって手を振ったアルトにより、足元に出現したブルーシートだけが、この幻想的な空間に妙なリアリティを生み出していた。
「映像だけでお花見って考えてたけど、降ってくる花弁まで楽しめるなんて」
「ここは現実ではないからな。想像力次第にはなるが、何だって出来る」
「この降ってくる花弁、限界まで増やせたりする?」
「勿論」
口角を上げたアルトの肯定が聞こえたかと思うと、情緒も何もなくドサドサ降り注ぎ始めた滝のような花弁たちに、冗談冗談!と慌てて声を上げる。
一瞬にして視界を埋め尽くした薄紅色はすぐに晴れ、くすくすと笑うアルトがそこに居た。
「多ければ良いってもんじゃないことがわかったね……」
「何事もほどほどが良い。……で、だ」
いたずらっ子の雰囲気を仕舞い込んでそわりと瞳を揺らしたアルトに応え、ずっと持っていた風呂敷をブルーシートに広げる。
有り余る時間を存分に使って私が作ったのは、色とりどりのおにぎりをはじめとしたザ・お花見弁当で。
唐揚げや卵焼きはもちろん、煮物や天ぷらまで、桜を見ながら食べたいものを片っ端から詰め込んだよくばりセットを並べると、向かい側からわぁ、と無意識に漏れたような声が届いた。
「綺麗なお花には美味しいお弁当ってね」
2人でいただきますと手を合わせ、好きなだけ食べてと促すと、紙皿と割り箸を装備したアルトが真っ先に選んだのはいなり寿司で。
もくもくと噛む姿を落ち着かない気持ちで見守っていると、ごくりと呑み込んだアルトは頬を緩めて「美味しい」と呟いた。
「本当!? 良かったぁ……」
「そんなに不安だったのか?」
「最悪美味しくなかったら、アルトが何かこう……情報をいじって美味しくしてくれたりしないかなって思ってた」
「出来なくはないが、例え不味かったとしてもしないぞ」
せっかくの先生の手作りなのに、と零しながら筍の煮物をお皿に移すアルトの気持ちは嬉しいけれど、無理だけはしないでほしい。
私が塩と砂糖を間違えていても、このアルトなら顔にも出さず平然と食べてしまうのではないだろうか。
そんな、あり得そうで考えたくない可能性を首を振って吹き飛ばし、桜でんぶのおにぎりを口に入れながら空を仰ぎ見る。
「……綺麗すぎて、現実感ないかも」
何の前触れもなくこの場所に連れてこられて、ここが天国ですと言い切られてしまえば、信じてしまうだろうと確信できる風景に、ほう、と溜め息が漏れる。
少し考える素振りを見せたアルトは、思いついたとばかりに、ぽんとひとつ手を叩いた。
「降ってくる花弁を、確率で任意の虫にすることはできる」
「嫌な運試しだね」
するか?と首を傾げるアルトに、現実感は決して求めたわけではないと必死に止めていると、不意にアルトの視線が何もないところに彷徨った。
もしかして。
「北斗から連絡だ。ここで出るか?」
「出られるの?」
「そこだ」
アルトの示す方向へと視線を向けると、桜の木の幹が四角に切り取られ、見覚えのある研究室が映し出される。
ひょこりと画面内に入ってきた北斗さんは、「お花見してるの?」と少し驚いたように目を見張った。
「見てくれ北斗。先生のお弁当だ」
「わ、本当だ。美味しそうだね」
「アルトが作ってくれた風景でお花見中です。北斗さんもいかがですか?」
「良いね。コーヒーでお邪魔するよ」
微笑みながら傍らのマグカップを掲げてくれた北斗さんは「ところで本題なんだけど」と眉を寄せる。
「君、そっちに行ってから、一度でも眠ったかい?」
「え?」
向けられた疑念があまりにも唐突すぎて、思わずぱちりと瞬いた。
私の反応で欲していた答えを得たのか、窓の向こうから軽いため息が聞こえる。
「食事をとらなくても良いからといって、睡眠もとらなくて良いとは言っていないよ。アルトだって疲れたら寝るし、ましてや君は生きる世界が違うんだ。ただでさえ負担が大きいのに、眠って回復していないのは大問題なんだよ」
「先生、寝ていなかったのか?」
「うん……何だかんだ、ずっと起きてて……」
寝ようとしていないわけじゃないんだけど、とこちらに来てからの睡眠を思い出す。
一昨日の夜は、寝ようとしたけど眠れなくて。昨日は、プラネタリウムで何度か眠るチャンスがあったけれど、どうにも眠気がやってこなくて。
疲れるようなことをしても、暗い空間でも、寝る気が起きなかったものだから、慣れない空間に神経が昂っているのかなぁと軽く考えていたけれど、流石にそろそろおかしいと思わなければならないタイミングかもしれない。
「人間って、身体がないと眠れなかったり……します?」
「……正直、可能性はある」
深刻な声色の北斗さんは、口元に手を当てて考え込む。
でも、だとすると。
「眠らなくて良いなら良いで、それでも良いんじゃないですか?」
今のところ、特に不調もないし、困っていないと伝えると、北斗さんは厳しい表情のままゆるりと首を横に振った。
「逆だよ。眠れないなら一刻も早く戻ってこないといけない。人間は眠らなかったら狂うんだ」
「狂う……」
こんなに楽しく過ごしているのに?とアルトを振り返ると、俺も同じことは考えた、という視線と僅かな頷きが返ってきた。
「とはいえ、変わらず君を戻す方法は不明のままだ。君の身体は健康だし、そこにいる君も今のところ健康なのに、元の1つに戻る方法だけがわからない」
「どうしましょうね」
「本当にね」
その上タイムリミットまであるだなんて、と項垂れる北斗さんは、一度ぐっと強く目を閉じると「悪いけどアルト」と言いながら顔を上げた。
「今日はずっと付きっきりで、眠るためのありとあらゆる何もかもを試してくれる?」
「えっ」
私、1人で眠れないと思われている……?
そんな小さい子じゃないんだから、と断ろうとしたけれど、アルトが頷く方が早かった。
「ああ。先生は放っておいたらすぐ動き回るからな」
「あれっ……もしかして映画も観ちゃダメだったり……?」
「当たり前でしょ」
「俺の子守唄で我慢してくれ」
湿気を含んだじとりとした視線が2方向から飛んでくるけれど、何もせずにじっとしているのは流石に……ん?
アルトの子守唄……?
「眠るまで歌ってくれる?」
「俺の喉が潰れる前に眠ってくれるか?」
「アルト、嫌なことは断っても良いんだよ」
俺が言うのも何だけど、ほどほどにね、とフォローしてくれる北斗さんに見送られ、外との通信を終える。
さてどこで眠ろうか、と思案するも、ふと見上げた視界いっぱいに映る桜がやっぱりとても魅力的で。
「夜桜とか、どう思う?」
「風情があって良いと思う」
食べ終えたお弁当とブルーシートを片付け、アルトと共に地面に寝転がって、暗くしてもらった世界に浮かび上がる桜をしばらく眺めてから目を閉じる。
隣から聴こえる静かな歌声が、心地よく夜空に溶けていった。