末の妹として大切にされてきましたが、 妻として溺愛されることになりました
第二章 ブレットの密室③
「え、あの、あちらの広い、実験台で行わないのですか?」
せっかくさっき片付けたのにと思うが、ブレットが忙しなく手招きするので、クレアも彼の後を追った。小部屋は実験室の三分の一ほどの広さだろうか。様々な道具や雑多な収集品で溢れかえっており、足の踏み場もないほどだ。
「これを見てくれ」
ブレットは軽々と物を飛び越え、隅に置いてあった大きな箱の蓋を開けた。途端にオレンジの良い香りが立ち上る。
「オレンジの、皮? すごい数ですね」
「香水を作るなら、このくらいの量は必要だからな」
「私、果汁を搾るのかと思っていました」
「精油は果皮から採れるんだよ。この器具に果皮をあて、表面に染み出してきた液体を搾ってろ過するんだ」
ブレットはギザギザのついた、半円形の金属製の器具を見せてくれる。この量のオレンジの皮を、ひとつひとつ手作業で搾るとなると、結構な時間が掛かりそうだ。
「このひと箱で、どのくらいの精油が採れますの?」
「多分ひと瓶くらいじゃないかな」
「そんなに少ないんですか?」
クレアがビックリすると、ブレットは苦笑しながら答える。
「東洋のミカンとかいう柑橘類なんて、果物全体に対して0・3%しか採れんらしいぞ。大変な作業だが大丈夫か?」
「えぇ、もちろんですわ」
気を取り直したクレアは、箱の周辺を手早く整理した。ブレットは椅子を運んで来てくれ、ふたり並んでオレンジの皮に手を伸ばす。
「ところで皮をむいてくれたのは誰です? 中身はどうなったのですか?」
「召使い達に声を掛けて、午前中一杯かけてやってもらったんだ。果実は搾ってオレンジジュースになったと思う。余るようなら、領民に振る舞うよう言っておいたよ」
ブレットはこれからすぐに作業に入れるよう、抜かりなく手筈を整えておいてくれたのだろう。クレアはありがたく思いながら微笑む。
「そうですか、では後で労をねぎらわなければなりませんね」
「あぁ頼むよ」
クレアはオレンジの皮に器具の突起部を当てて傷を付け、一生懸命に精油を搾り取る。本当に少ししか採れず、気が遠くなる思いだ。
「精油は全てこの方法で採るのですか?」
「いや、柑橘系の精油は熱に弱いから、仕方なくな。本来なら蒸留釜に原料を入れて、水蒸気を送り込んでいるところだ。その方法なら、揮発した精油を集めて冷やすだけでいい。精油は水より軽くて、水に溶けないから、うまく二層に分離して精油だけが採れるんだよ」
「そうだったのですね……。すみません、お手間をお掛けして」
「僕はこうして、クレアとふたりで作業ができて、とても嬉しいよ。なんだか昔を思い出すようじゃないか」
子どもの頃、ふたりはよく机を並べて勉強していた。ギリシャやローマの古典語がメインで、支配階級として、ふさわしい教養を身につけさせようという意図だったのだろう。
ブレットは幼い時から優秀で、学問には情熱を注いでいたけれど、興味を持っていた自然科学方面ではない上に、家庭教師が大層厳しい人だったので、何度も逃亡を画策していたのを覚えている。
決して良い思い出とは言えないのに、ブレットが楽しそうにしているので、クレアは首をかしげながら答える。
「え、ええ、本当ですわね」
「あの頃、ギリシャ神話についても学んだが、クレアはパリスの審判を覚えているか?」
クレアは「もちろんです」とうなずく。
「トロイア戦争のきっかけになった物語ですわね」
「あぁ。『最も美しいものへ』と彫りこまれた黄金の林檎の所有をめぐり、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三美神が争うんだ。最後に林檎を手に入れるのは、愛と美の女神アフロディーテなんだが、黄金の林檎は実際にはオレンジだったとも言われていて」
ブレットが話に夢中になるのはよくあることだが、テーマがギリシャ神話だったことなど初めてで、クレアは驚きで目をパチパチさせてしまう。
「ん、どうかしたか?」
「いえ、よく記憶してらっしゃるなと思いまして。ブレット兄様にとっては、あまり関心がない授業が多かったでしょう?」
「どちらかというとな。でも」
ブレットは何か言いかけたが途中でやめてしまい、少し照れた様子で首を左右に振った。
「いや、なんでもない。無駄話はこのくらいにして、作業に戻ろうか」
頬を染めたブレットの横顔を見ながら、クレアはこれまで彼を誤解していたかもしれないと思う。知識を深めること、自身の知的探究心を満足させることが、彼の生き甲斐なのは間違いないが、きっとそれが全てでもない。
ブレットはクレアが思っていた以上に、彼女のことを気にかけ、大切に思ってくれていた。先ほどから彼の知らなかった一面ばかりを見せられ、正直困惑しているくらいだが、ふたりの関係が新たなステージに来ているのは感じていた。
それはクレアが意図したことではなく、兄妹で結婚(たとえ実の兄妹でなかったにしても)という非常識な話が持ち上がったからなのだが、改めてブレットの気持ちを理解し、これを機会に兄妹の絆を強められるのなら悪くない気がしてくる。
「さて、一旦休憩しよう」
考え事をしながら作業に没頭していたからか、いつの間にかオレンジの皮はすっかりなくなっていた。広口の瓶に搾った薄い黄色の精油は、確かにひと瓶程度でしかなく、いかに手間が掛かるかよくわかる。
「これをそのまま香水にするのですか?」
「いや、不純物も混ざっているから、傾けて上澄みだけを採るんだ」
「うまく分離しますの?」
「沈殿物が重くて荒い場合は、大抵これで上手くいくよ。入り口近くの大棚から、広口のガラス瓶をもうひとつ取ってきてくれるか?」
「はい、わかりました」
クレアは小部屋を出て、首尾良くガラス瓶を手に取るが、ふと実験室の扉が閉まっているのに気づいた。部屋に入るときに閉めた覚えがなく、なんとなくノブを回してみると扉が開かない。真っ青になった彼女は、ガラス瓶を持ったまま大急ぎで小部屋に向かった。
「大変です、ブレット兄様! 実験室の扉が開きませんわ」
せっかくさっき片付けたのにと思うが、ブレットが忙しなく手招きするので、クレアも彼の後を追った。小部屋は実験室の三分の一ほどの広さだろうか。様々な道具や雑多な収集品で溢れかえっており、足の踏み場もないほどだ。
「これを見てくれ」
ブレットは軽々と物を飛び越え、隅に置いてあった大きな箱の蓋を開けた。途端にオレンジの良い香りが立ち上る。
「オレンジの、皮? すごい数ですね」
「香水を作るなら、このくらいの量は必要だからな」
「私、果汁を搾るのかと思っていました」
「精油は果皮から採れるんだよ。この器具に果皮をあて、表面に染み出してきた液体を搾ってろ過するんだ」
ブレットはギザギザのついた、半円形の金属製の器具を見せてくれる。この量のオレンジの皮を、ひとつひとつ手作業で搾るとなると、結構な時間が掛かりそうだ。
「このひと箱で、どのくらいの精油が採れますの?」
「多分ひと瓶くらいじゃないかな」
「そんなに少ないんですか?」
クレアがビックリすると、ブレットは苦笑しながら答える。
「東洋のミカンとかいう柑橘類なんて、果物全体に対して0・3%しか採れんらしいぞ。大変な作業だが大丈夫か?」
「えぇ、もちろんですわ」
気を取り直したクレアは、箱の周辺を手早く整理した。ブレットは椅子を運んで来てくれ、ふたり並んでオレンジの皮に手を伸ばす。
「ところで皮をむいてくれたのは誰です? 中身はどうなったのですか?」
「召使い達に声を掛けて、午前中一杯かけてやってもらったんだ。果実は搾ってオレンジジュースになったと思う。余るようなら、領民に振る舞うよう言っておいたよ」
ブレットはこれからすぐに作業に入れるよう、抜かりなく手筈を整えておいてくれたのだろう。クレアはありがたく思いながら微笑む。
「そうですか、では後で労をねぎらわなければなりませんね」
「あぁ頼むよ」
クレアはオレンジの皮に器具の突起部を当てて傷を付け、一生懸命に精油を搾り取る。本当に少ししか採れず、気が遠くなる思いだ。
「精油は全てこの方法で採るのですか?」
「いや、柑橘系の精油は熱に弱いから、仕方なくな。本来なら蒸留釜に原料を入れて、水蒸気を送り込んでいるところだ。その方法なら、揮発した精油を集めて冷やすだけでいい。精油は水より軽くて、水に溶けないから、うまく二層に分離して精油だけが採れるんだよ」
「そうだったのですね……。すみません、お手間をお掛けして」
「僕はこうして、クレアとふたりで作業ができて、とても嬉しいよ。なんだか昔を思い出すようじゃないか」
子どもの頃、ふたりはよく机を並べて勉強していた。ギリシャやローマの古典語がメインで、支配階級として、ふさわしい教養を身につけさせようという意図だったのだろう。
ブレットは幼い時から優秀で、学問には情熱を注いでいたけれど、興味を持っていた自然科学方面ではない上に、家庭教師が大層厳しい人だったので、何度も逃亡を画策していたのを覚えている。
決して良い思い出とは言えないのに、ブレットが楽しそうにしているので、クレアは首をかしげながら答える。
「え、ええ、本当ですわね」
「あの頃、ギリシャ神話についても学んだが、クレアはパリスの審判を覚えているか?」
クレアは「もちろんです」とうなずく。
「トロイア戦争のきっかけになった物語ですわね」
「あぁ。『最も美しいものへ』と彫りこまれた黄金の林檎の所有をめぐり、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三美神が争うんだ。最後に林檎を手に入れるのは、愛と美の女神アフロディーテなんだが、黄金の林檎は実際にはオレンジだったとも言われていて」
ブレットが話に夢中になるのはよくあることだが、テーマがギリシャ神話だったことなど初めてで、クレアは驚きで目をパチパチさせてしまう。
「ん、どうかしたか?」
「いえ、よく記憶してらっしゃるなと思いまして。ブレット兄様にとっては、あまり関心がない授業が多かったでしょう?」
「どちらかというとな。でも」
ブレットは何か言いかけたが途中でやめてしまい、少し照れた様子で首を左右に振った。
「いや、なんでもない。無駄話はこのくらいにして、作業に戻ろうか」
頬を染めたブレットの横顔を見ながら、クレアはこれまで彼を誤解していたかもしれないと思う。知識を深めること、自身の知的探究心を満足させることが、彼の生き甲斐なのは間違いないが、きっとそれが全てでもない。
ブレットはクレアが思っていた以上に、彼女のことを気にかけ、大切に思ってくれていた。先ほどから彼の知らなかった一面ばかりを見せられ、正直困惑しているくらいだが、ふたりの関係が新たなステージに来ているのは感じていた。
それはクレアが意図したことではなく、兄妹で結婚(たとえ実の兄妹でなかったにしても)という非常識な話が持ち上がったからなのだが、改めてブレットの気持ちを理解し、これを機会に兄妹の絆を強められるのなら悪くない気がしてくる。
「さて、一旦休憩しよう」
考え事をしながら作業に没頭していたからか、いつの間にかオレンジの皮はすっかりなくなっていた。広口の瓶に搾った薄い黄色の精油は、確かにひと瓶程度でしかなく、いかに手間が掛かるかよくわかる。
「これをそのまま香水にするのですか?」
「いや、不純物も混ざっているから、傾けて上澄みだけを採るんだ」
「うまく分離しますの?」
「沈殿物が重くて荒い場合は、大抵これで上手くいくよ。入り口近くの大棚から、広口のガラス瓶をもうひとつ取ってきてくれるか?」
「はい、わかりました」
クレアは小部屋を出て、首尾良くガラス瓶を手に取るが、ふと実験室の扉が閉まっているのに気づいた。部屋に入るときに閉めた覚えがなく、なんとなくノブを回してみると扉が開かない。真っ青になった彼女は、ガラス瓶を持ったまま大急ぎで小部屋に向かった。
「大変です、ブレット兄様! 実験室の扉が開きませんわ」