末の妹として大切にされてきましたが、 妻として溺愛されることになりました

第二章 ブレットの密室②

 数日後の朝、ブレットに呼ばれて、クレアは実験室に赴いた。普段立ち入ることがない場所なので、彼女は少々緊張しながら室内に足を踏み入れる。



「失礼します」



 真っ先にクレアの前に立ちはだかったのは、天井まで届く大きな棚だった。瓶詰めされた奇妙な液体や、用途のわからない金属製の器具などが、所狭しと並べられている。



「やぁよく来たね、クレア」



 白いシルクのシャツに身を包んだブレットが、棚の向こうから顔を出した。



「こっちに入ってきてくれ」



 ブレットに促されて実験室に入ると、床が光沢のある大理石になっている。



「こちらには絨毯が敷かれていないのですね」

「あぁ、僕が頼んだ。薬品が零れることもあるし、掃除も楽だからね」



 実験室の内装は、ブレットの意向が強く反映されているのだろう。

 壁には絵画や装飾品の代わりに書棚が置かれ、古代の哲学者や科学者の著作が詰まっている。それでも収まりきらない書物や手稿などは、部屋の隅に堆く積まれていた。

 中央にある実験台の上も雑然としており、セシルが魔窟だと言うのもよくわかる。



「まずはどこから、手を付けたらよろしいですか?」

「とりあえず実験台の上を、片付けてくれるか? 危険な薬品もあるので、気をつけて」

「はい、わかりました」



 クレアは走り書きされた紙をまとめ、開きっぱなしの書物を書棚に戻した。続いて実験に使われたであろうガラス瓶を集め、実験室の奥にある水場で洗浄していく。試薬の香りが微かに漂い、ブレットの知的探究心の深さが、こちらにも伝わってくるようだ。



「悪いね、クレア。そのくらいで十分だよ」



 ブレットがクレアの肩を叩き、彼女は顔を上げる。



「この部屋にいると、自然と作業に没頭してしまいますね」

「実験には静かで集中できる環境が必要だからな。外部からの騒音は、できるだけ入ってこないようになっているんだ」



 意味深なブレットの笑みに、クレアはなんとなく違和感を覚えたが、そのことはあえて口には出さず別の質問をする。



「あの、ブレット兄様は、本当に結婚を望んでおられるのですか?」

「なぜそんなことを聞く?」



 ブレットに切り替えされ、クレアは躊躇いつつも、ずっと考えていたことを口にした。



「知りたいこともやるべきことも、たくさんおありだと思うからですわ。ブレット兄様にとって、結婚に意味があるとは思えません」



 うつむくクレアの顔を覗き込み、ブレットは笑って言った。



「僕に人は愛せない、と?」

「そんなつもりは」



 はじかれたように顔を上げたクレアの頭を、ブレットが優しく撫でた。彼の長い指先がふんわりと毛先に触れ、彼女の鼓動は急激に激しくなる。



「確かに僕には使命がある。解き明かしたいことだってまだまだあるが、それとこれとは別だ。人はひとりでは生きられないからな」



 とてもブレットの台詞とは思えなかった。頭に伝わる温もりには、彼なりの兄妹を超えた愛情が込められており、温かな何かに満たされつつも戸惑いを隠せない。



 確かに喜びはあるのだが、心の奥深くから湧き上がる感情に名前をつけることができず、自分でもそれを持て余しながら、クレアは思い切って主張する。



「ブレット兄様は、ひとりでも十二分に楽しそうに見えますが」

「何を言う。僕にとって、クレアと過ごす時間に勝るものはないよ」



 クレアは額面通りに受け取れず、どう答えるべきかわからない。ブレットはそんな彼女の頭から手を離し、力強く続けた。



「こうして会話することも、僕はとても有意義だと思っているんだ」

「この他愛もないおしゃべりがですか? 私にはブレット兄様ほどの知識はありませんし、議論を闘わせることもできません」

「それがいいんだよ」



「え?」

「クレアと僕は違う人間だ。クレアにしかない視点があり、クレアだけが得た知見もある。クレアの考え方に触れることで、僕の創造力が刺激されるんだ」



 ブレットの言葉がクレアを包み込み、ひどく心を揺らした。その言葉こそが、彼女に新たな視点をもたらしてくれたのだ。考えもしなかったけれど、ちゃんと彼の役に立てていた。その事実が素直に嬉しくて胸が熱くなる。



 クレアはブレットを尊敬しているし、彼なくしてオークレントは立ちゆかないとさえ思っている。公務が大変だからこそ、普段から体調管理に気をつけて欲しいのだが、休息よりも実験を優先しがちな彼には、随分と気を揉んできた。



「ありがとうございます。私でもブレット兄様のお力になれているなら、こんなに光栄なことはありませんわ」

「私でもなんて、自分を卑下するような言い方はするな。僕は本当にクレアも、クレアとの時間も大切に思っているんだから」

「はい……」



 クレアは静かな幸福に包まれ、顔に自然と笑みが広がるのがわかった。ブレットは柄にもないことを言ったせいか照れまくっていて、早足で実験室の奥にある扉のない小部屋に入っていく。



「さぁ、クレアもこちらへ。作業に入ろう」
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