私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
睨みつけても効果はないようで、知久は私の手を取った。
不安八割くらいで店から出た。

「大丈夫。唯冬の恋はうまくいくよ」

「私が心配しているのは唯冬の恋の行方より、千愛さんのことよ」

ピアノが弾けなくなるくらい精神的に追い詰められた彼女がこれ以上、傷つかずに済むよう、そっとしておいてあげたいと考えている私と違って、唯冬はもう一度音楽家としての道に戻そうとしている。
その道は楽なものではない。
ブランクもあるし、精神的なトラウマもある。

「小百里。誰も傷つけずに生きることなんてできないよ」

知久の言葉にドキッとした。
自分の心の中を見透かされたような気がした。
曇り空の中、雨を心配しながら、唯冬が買ったベンツに乗った。
まさか、このベンツも彼女のため……?

「どうかした?」

「なんでもないわ。とんでもない弟達だなって思っていただけよ」

「弟か」

運転席に座る知久が苦笑した。

「俺は弟になった覚えはないよ」

「そうね」

口では弟と言っているけど、一度も弟だなんて思ったことはない。
ポツポツと雨が降り出し、車のフロントガラスに雫の丸い粒を落としていく。
知久は港のそばの公園に車をとめると、窓を開けた。
雨が降っていて、車内に入って来た空気はひんやりしていた。
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