私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】

22 婚約者の来店

一度降り出した雨は、店に戻っても止むことはなかった。
店内に入ると唯冬(ゆいと)は一人、グランドピアノの前に立ち、白い鍵盤に指を触れさせ、じっとそのまま、人形のように見つめて動かなった。
指が触れているのは多くある鍵盤のうちのひとつだけ。

「小百里。おかえり。知久とのドライブはどうだった?」

「安全運転だったわ」

「他に言うことあるよね!?」

知久は不満そうにしていたけど、唯冬の穏やかな顔を見ると、嬉しそうに笑った。

「うまくいったんだ?」

「彼女はピアノに触れた。一音だけ鳴らした」

いつも冷静な唯冬の声が微かに震えていた。

喜びと希望、千愛(ちさ)さんとようやく向き合えたことが嬉しかったのだと思う。

「そう。よかったわ……!」

千愛さんはいつも同じ場所に座る。
窓際の緑が近い場所。
辛そうで、苦しそうで、そして救いを求めて―――最後には諦めてうつむく。
まだ千愛さんは弾けなくなったあの日から、動けずにいた。
それを唯冬は動かした。

「姉さん、次に彼女が来た時、引き留めてもらっていいかな」

また姉さん呼び。
引き留めると言われてもどうやって引き留めればいいの?
お茶を出す!?
それともケーキ?
そもそも、唯冬は心に傷を負っている彼女をどんな方法で引き留めたのか、気になっていた。

「ねえ、唯冬。どうやって千愛さんを引き留めたの?」

「ピアニストだからピアノの演奏で引き留めたよ」

にっこり笑ったけど、その笑顔がどこか嘘くさい。

「色仕掛けだろ?」

「俺が知久のような真似をするわけがない」

「真似しないほうがいいわよ」

褒められるようなことじゃないし。
知久は私を見て笑う。
そして、私のエプロンを手にすると手招きした。

「小百里さん、エプロンの紐を結ぼうか?」

「結構よっ!」

そんなこと、みんなの前でできないと、わかっているくせに知久は私を揶揄う。
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