私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】

27 彼の音

朝から静かな雨が降っていた。
激しい雨ではなく、霧雨のような雨が。
今日は店は貸しきりになっていて、時間に余裕があった。

まだ誰も来ない。
私はピアノの前に座った。
スタインウェイのグランドピアノ。
澄んだ音が店内に響いた。

『自分を偽っているね』
『君のピアノは冷静に見えるようで、冷静ではない。激情を秘めた音だ。陣川君の音によく似ている』

高校時代、私のピアノをみてくれていた先生がそう言った時、私は知久のように上手に心まで騙れないのだと知った。
先生が私と知久の関係を知っていたのかどうか、今となっては知りようがないけれど―――鍵盤に指を触れさせ、目を閉じる。
静寂の中に音色が美しく響く。
今、弾くのならこの曲。
木々が風に揺れ、葉のささやきの中に響く鐘の音。
小さい鐘の音が耳を澄ますと遠くで鳴っている。
鐘の余韻を残して―――

「葉ずえを渡る鐘の音……」

声がして、集中が途切れ、演奏を止めた。

「あっ……! ご、ごめんなさい。邪魔してしまって」

千愛(ちさ)ちゃんだった。
申し訳なさそうにしているけど、私は気にしていなかった。
ただ時間が空いたから弾いていただけで、これは遊び。
困った顔をした彼女に微笑んだ。

「いいのよ。謝らないで。暇だったから、弾いていただけだから」

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