私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
なぜなのか、わからないけれど、音が違う。
それが私と彼の差。
きっと私がピアニストになりたいと思えなかったのは知久の音が一番好きだから。
自分の音よりも、ずっと。
言い返せずに黙った私を見て、知久は微笑む。
バイオリンの弓を手にし、羽のように軽い動作で構える。

「小百里。ちゃんとついてきてよ? 俺から逃げずにね」

そう言って、知久は蠱惑(こわく)的な目で観客を見つめる。
それだけで彼は人を魅了できてしまう―――まるで、悪魔みたいに。
彼の瞳を直に受け止めれば、皮膚が粟立つ。
だから、私は自分の手元を見つめる。
深呼吸をひとつ。
白い鍵盤に目を落とし、曇り一つない鍵盤の上に指を置く。
一音目。
それが私の答え。
逃げられるのであれば、どんなによかっただろう。
私は逃げることができない、あなたから。

「さすがだね」

小さい声で知久が言った。
姿勢を正し、左手の指がバイオリンの弦に触れる。
バイオリンを見る知久の目が好き。
少し伏せた目、落ちた前髪が目蓋にかかるのも。
知久のバイオリンから切ない音が響いた時、おしゃべりをしていた人も食事をしていた人も全員がこちらに視線を向けた。
音は切ないけれど、どこか明るい彼らしい表現。
中盤のピアノソロに入る前に知久は私を見て微笑む。
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