私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
流れるように踊るように―――けれど、どこか切なく。
私達の演奏は続く。
バイオリンは人の声に似ている。

『触れて、キスをして、私をあなたで満たして』

そんなふうに知久が歌っているように聴こえる。
終盤はスピードを上げ、感情に任せ激しく弾く知久に店内の人間全員が見惚れているのがわかる。
圧倒的な音と存在感。
それは知久だけが持つもの。
天才バイオリニストと幼い頃から言われ続けてきても潰れることはなかった。
彼の持つバイオリニストとしての腕と人の目を惹き付ける容姿。
さっきまで、不機嫌だった毬衣さんもうっとりと見つめている。
演奏が終わると大きな拍手が起きた。
知久は私を見て、微笑んだ。
私も微笑む。
知久が私の手を取り、手の甲にキスしようとした瞬間。

「小百里」

その余韻も冷めやらぬうちにコツコツと革靴の音を響かせ近づいてきたのは笙司(そうじ)さんだった。
< 15 / 172 >

この作品をシェア

pagetop