私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
毬衣さんは気まずそうな表情をしながらも、知久の『できなかった』という言葉になにも答えなかった。
コンクールに出場しなかったではなく―――知久が私の代わりに怒る必要はない。
出ようと思えば、出られた。
出て、その道を歩むことも選択肢にあったかもしれない。
けれど、私が選んだのは。

「知久さん」

私は微笑んだ。

「ありがとう。でも、私の演奏はコンクール向きではないわ。笙司さん、席に行きましょうか」

毬衣さんは昔から私を嫌っている。
だから、嫌味を言われたところで、本気で相手にする気はなかった。
顔を合わせるたびなにか言わずにはいられないのだから、このままここに長く留まるほうが、面倒なことになる。

「小百里と毬衣さんは従姉妹(いとこ)なのにまったく似てないな」

席に戻ると、金色のシャンパンがシャンパングラスに注がれていた。
笙司さんはグラスを手にして、浮かんだ泡を眺め、ぽつりと呟いた。

「私を月に連れて行ってか」

「曲を選んだのは知久さんよ」

「わかっているよ」

シャンパングラスを鳴らし、笙司さんは嫉妬心を滲ませ、知久を眺めていた。
知久がバイオリンを手にしただけで、拍手が起きる。
店内にいる女性の心は彼のもの。
奏でれば、奏でるほど。
音に溺れていく。
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