私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
彼の音に誰もが。
冷静であろうと思っている私でさえも。
目を閉じて、グラスの中のシャンパンを口にした。

「彼は魅力的な男だ。君が好きにならないとも限らない」

「笙司さんが嫉妬なんて、珍しいわね」

私はまた嘘をついた。
本当は知っている。
笙司さんが知久に何度も嫉妬しているのを見ていたのを。
けれど、私はそれを口にしない。

「留学に行く前はまだ子供だったが、留学を終えて帰って来た知久君は男としての華やかさが増したよ」

次の曲を知久が弾き始めた。
曲はカルメン。
彼が得意とする曲。
女性客の歓声が店内に響いた。

「小百里。そろそろ結婚しないか」

いつかそう言われる日が来ると思っていた。
客席は私の冷え冷えとした気持ちとは裏腹に、彼が得意だと公言しているカルメンに酔いしれていた。
知久のカルメンは情熱的に愛を歌う。
誘い惑わせ狂わせる。
本当は違う。
彼が得意な曲はカルメンじゃない。
わざと彼は自分を隠している。
それは彼だけじゃなく、私も同じ。
ずっと周りにも自分にも嘘をつき続けて、欺いて、うまく本心を隠し続けるしかなかった―――私達は。
< 18 / 172 >

この作品をシェア

pagetop