私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
「すみません。バイトの募集を見てきたんですが、まだ募集していますか」

入ってきたのは男子大学生だった。
その後ろからは数人のお客様がやってきて、穂風が案内する。

「ええ。募集しているわ」

「ここでピアノ講師とピアノの演奏をさせてもらえると先生に勧められたんですが、できますか」

菱水音大の生徒らしく、ピアノが弾けるというのが、このバイトの魅力だと思ってくれて、来てくれたようだった。
練習室の予約をとるのに苦労したのを思い出してうなずいた。
長身で繊細そうな指。
あの指でどんな音を鳴らすのだろう。

「もちろんよ。名前は?」

「ピアノ科一年、桂正(けいしょう)莉歌(れか)」

女の子みたいな名前に私達は彼を凝視した。
知久が気に入らない顔をしているから、男性で間違いないようだけど、知久は名前を聞いて目を細めた。

「桂正? もしかして、母親はオペラ歌手?」

「……まあ、そうです」

莉歌君は嫌そうな顔をしたけれど、知久は気にしない。

「うん、興味ある。ぜひ、弾いてみてほしいな」

「知久」

「小百里。きっと素敵な音だよ。楽しみだね」

楽しみにしているのは知久だけじゃない。
唯冬も逢生君も千愛ちゃんも彼を見ている。
カフェ『音の葉』は私の描いた夢のとおり音楽家が集まる店になった。
莉歌君はピアノの前に座り、物怖じせずに鍵盤を見下ろし、指を落とす。
彼の音色は澄んだ音。
冬の冷たい空気のようにピリピリしている。

「成長が楽しみだね」

知久が私の耳元で囁いた。

「ええ」

この店を始めてよかった。
ここで、私はたくさんの音を聴くことができる。
次はどんな物語が始まるのだろう。
ここから、また新しい音が奏でられていく。
私の大切な場所、カフェ『音の葉』で―――

【了】
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