私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
 かまどで炊いた炊き立ての白いご飯で握られたおにぎり、出汁の味が染みた美味しい煮物、魚の西京焼きとおひたし、煮豆などが入った和風お総菜を買う。
 カフェ『音の葉』で食事をすることが多いが、試験前の千愛はき少しでも弾いていたいと思っているはずだ。
 すぐに食べられるものを用意した。
 二人で暮らすマンションは防音設備が整っている。
 そんなマンションを選んだのだから当然だが、玄関のドアを明け、部屋に入ると静かで暗いままだった。
 千愛はずっとピアノを弾いているのか、リビングに気配はなかった。

「休むことを知らないからな」

 防音室の部屋をノックし、ドアを開ける。開けたドアの隙間からは千愛が夢中になって弾くラ・カンパネラの曲が流れてきた。
 千愛がピアノを弾けなくなった時期の辛さや悲しみの経験を音の中に感じ、以前よりずっと深みが増し、感情的な音になっている。
 正確だけじゃない。
 気持ちが入った音だ。
 どんなに正確でも気持ちのない音は心に届かない。

「千愛の音だな」

 もう彼女は自分の音を持っている。
 気持ちを乗せた音を。
 俺が部屋に入って来たことにも気付かないで千愛は弾く。
 いや、気付いているのだと思う。
 けれど、途中で止めたくないのだ。

< 182 / 198 >

この作品をシェア

pagetop