私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
お金の勘定をするくらいなら、魚のパイ包みの周りに添えられた見事なソースでも味わっていたらいいのに。
黙ったまま、ナイフでさくっとパイを崩した私を見て返事をもらえないと察したのか、向こうも同じようにナイフを入れた。
淡々と食事をする私達を見て、誰が婚約者同士だなんて思うだろうか。
性格が情熱的なタイプじゃないというのもあるけど、最初から私の婚約者の瀬登(せと)笙司(そうじ)さんは冷たい印象を抱かせるような人だった。
私より八つ年上の三十二歳。
イタリアンレストランや輸入食品店を経営する会社社長で大人の落ち着いた雰囲気を持っている。
落ち着いた大人の男性といえばそうなのだろうけど―――

小百里(さゆり)さーん! 久しぶり!」

冬の冷気が漂っていたテーブルに春一番が吹いた。
冷気を吹き飛ばし、現れたのはさっきまで真剣な表情でバイオリンを弾いていた知久だった。

「俺の演奏はどうだった? 惚れ直した?」

女性客に笑顔で手を振り、芝居がかったお辞儀をしてふざけている。
赤い顔をした女性客に投げキッスとウインクまでして、サービスするのはどうかと思う。
バイオリニストだけど、知久は陣川製薬の御曹司でもあるのだから。
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