私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
知久を木製トレーで押し戻す。

「それで、三人はなんのお手伝いをしてくれるの?」

「ああ。手伝いっていうか。唯冬がピアノを買ったって言ってたから、ちょっとした演奏会を開こうって話になってさ」

「無理やり連れて来られた」

大きなチェロを担いで、むぅっとした顔をし、やって来たのはチェリストの逢生君だった。
知久と唯冬に巻き込まれ、不満そうにしていた。

「ほら、逢生。夕飯を奢ってやるから」

唯冬にメニューを差し出され、逢生君は少しだけ機嫌を直した。

「なにを弾く?」

逢生君はやる気になったのか、先にピアノの横に立った。

「あいつ、わかりやすいな」

唯冬は苦笑しながらピアノに触れ、目を閉じる。
誰を想って触れているのか、私にはわかるけれど、まだ千愛(ちさ)さんは店に来ていない。
きっと彼女はピアノをやめてから、ピアノに触れることはなかったと思う。
避け続けてきた彼女が最初に出会うのが、唯冬のピアノだなんて。

「誘蛾灯というよりは、もう捕獲器ね」

きっと彼女は唯冬の音を聴いたら、離れられなくなる。
唯冬の音は全部、彼女のためのものなのだから。
感受性の高い彼女に伝わらないわけがない。
ピアノを弾こうが弾くまいが、きっと千愛さんは唯冬に惹かれて囚われる。

「可哀想に」
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