私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
渋木の家にもピアノはあるけど、唯冬も使いたいだろうし、清加(きよか)さんも弾くからどうしても自由には弾けない。
だから、練習室の予約は私にとってありがたいものだった。

「悪知恵が働く弟達に騙された私っ……!」

「人聞きが悪いな、小百里。早く弾かないと時間がなくなるよ?」

悔しいけど、その通りだった。
私は練習のつもりで、ショパンの蝶々を弾く。
軽やかで明るくて、春の訪れを喜び舞う蝶々達。
知久は窓辺に寄りかかり、私が弾くのを黙って眺めている。
課題曲を終わらせて、私が弾き終わるのをただ静かに待っている姿は犬みたいで可笑しい。
その様子に笑みがこぼれてしまい、知久がにこりと笑った。

「なにか楽しいことでもあった? それとも俺といるから楽しい?」

「そうね」

騙されたことには腹が立ったけど、本当は知久と一緒にいるのは嫌じゃない。
むしろ、私は居心地がよかった。
渋木の家は息苦しく、章江(あきえ)さんや毬衣(まりえ)さんが来るとよけいに家全体が重い空気に包まれるのがわかる。
学校は私にとって、息抜きの場所だった。

「俺といて楽しいならよかった」

練習が終わると、次は先生に聴いてもらうための曲を練習する。
曲はベートーヴェンのピアノソナタ十七番『テンペスト』。
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