私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
汗が落ち、滴るのも気にならないくらい。

「小百里……」

私も知久も目を閉じた。
きっと一生忘れられない。
涙がこぼれた。
知久の汗ばんだ肌に唇をあてて、痕を残した。

「そんなことされたら、一回で終われなくなる」

汗ではりついた髪をなであげて知久が笑う。

「小百里。好きだ。愛してる」

何度も繰り返された言葉に私はキスで応えた。
今日だけは嘘をつかなくていい。
だから、何度だって言ってもいい。

「私も好きよ」

他の誰よりも。
こぼした涙を舌ですくい、目蓋に口づけた。
忘れたくても忘れられなくなるくらい知久は私を抱いた。
気が付いた時には知久が逃げられないように腕をからませ、目を閉じていてもわかる華やかな顔がそばにあった。
けれど、眠る顔はまだ、あどけなかった。

「知久……」

私が呼ぶ声が届かないくらい深く眠っている。
私の部屋に置いてある雑誌には『将来を約束されたバイオリニスト』『ドイツの名門音大へ入学』と書かれ、彼の未来は明るく曇りがないことを私に教えていた。
それを見て、嬉しいはずなのに私は泣いていた。
声をあげずに泣いていた。
どろりとした重たく暗い憎悪や負い目を背負って生き続けなくてはいけない私がいれば、彼を苦しめることになる。
私は知久からそっと手を離そうとして、その手を止めた。
わかってる。
いつか知久が私のそばからいなくなる存在だってことは。
私の幸福はいつだって儚いものだった。
母に捨てられ、父に存在を隠され、婚約者を与えられて、知久に愛されて幸せだと思っても、それは一瞬だけ。

「好きよ……知久……」

四年で消えてしまうであろうこの恋を心の奥深くにしまって、彼の成功を私は願う。
眠る知久の顔に涙とキスをひとつ落として、私は知久を見送った。
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