私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】

21 弟


どんよりした灰色の雲が広がっていた。
雨が降りそうで、降らない中途半端な天気。
店はディナータイム前の準備中で、テラス席を用意しようか、どうしようかと空を見上げた。
今日の店内の曲はセヴラックの『古いオルゴールが聞こえるとき』が流れている。
ピアノの優しい高くか細い音が雨を誘う。

「小百里さん、いるー?」

曇り空も雨を吹き飛ばす声が店内に響いた。
開店準備をしていた私の手を止めたのは知久の声だった。
穂風(ほのか)がお客様がもうやってきたのかと、驚いて顔を出し、メニューを並べていた私は苦笑した。

「知久君だったのね」

穂風は知久がここに来ることに慣れてしまって不思議に思わず、またキッチンに戻る。
最近の知久は暇さえあれば、店にやって来て顔を覗かせていた。
ふわりと漂う薔薇の香りに気づくのと同時に店内の曲が変わって、セヴラックの『ロマンティックなワルツ』が流れた。
華やかな曲だけど、それでいて、どこか陰がある落ち着く曲で、これもやっぱり雨が降る日を思い出させた。
霧雨、にわか雨、小雨に時雨―――そして、私の心の中にある嵐のような暴風雨。
それは誰も知らない私の顔。

「まだ店は開いておりません。まだ開店準備中よ」

「そんな冷たいこと言わずに。ほら、小百里さんが好きな薔薇だよ?」

赤い薔薇の花束をサッと目の前に差し出した。
この花束を抱えて、この店までやってきても、違和感がない。
赤い薔薇が似合っているから、嫌味を言いたくても何も言えなかった。
薔薇の甘い香りが広がった。
知久はにこっと微笑んだけど、赤い薔薇はやりすぎじゃない?
そう思っていると、遅れて入って来た人がいた。

「姉さん。頼みがあるんだ」

「唯冬」

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