一年だけの契約妻で、ほぼ放置されていたのに
『母は気丈に振る舞っていたようです。しかし、ある夏、別荘の階段から落ちて頭を打ちました。幸い意識も早く取り戻し、身体に大きな傷は残りませんでしたが記憶障害が残りました』
『記憶障害……』
『はい。私が生まれる前までしか覚えていませんでした』
鷹士さんの母親は鷹士さんを忘れてしまった。それは今もだという。夫のことは覚えていて、かわらず生活できているから、七歳の鷹士さんは別の家で生活することになった。父親が足繁く通ってくれたし、家政婦も雇われて不自由はなかったという。だけど、母親とは別居してから一度も会っていない。
鷹士さんの母親は今も心身の負荷を考慮して一族の集まりに出席することなく過ごしている。
階段から落ちたというけれど、その頃は心療内科にかかっていて不安定な状態だったそう。だから、誤って足を滑らせたのか、本人の意思で階段から落ちたのかはわからない。虐げてきた一族の人間や鷹士さんと接触して記憶が戻り、当時のつらさを思い出したらまた病んでしまう可能性もある。もちろん、これは家族内だけの秘密で、世間体では母親は病弱で療養中になっている。親族にもだ。
『あなたもいろいろ言われると思います。母のことを言われてあなたが知らないのも不自然なのでお話しましたが、情報のひとつ程度に頭の隅に置いておいてください』
『わ、わかりました』
頷きこそしたけれど、あまりに淡々と話す鷹士さんに私は重大なことなのに拍子抜けするような感覚に陥った。
まるで他人事みたいな。感情がない。きっとそうしてこなければならないほど、子供にはつらい現実だったと思う。
『お母さんともう会えない』という言葉はこういうことだったんだ。あの頃のおう君の境遇が明らかになって、当時の私は本当に何もできていなかったと悔いた。本当ならもっと話を聞いてほしかったかもしれない。自分と同じように亡くなってしまったと勝手に解釈して、痛みが伴う部分には触れずに聞き流した。今になって襲ってくる後悔と、さっきの女性の冷たい態度と相まって胸を掻きむしりたくなる。
「ああいう輩がいるからこういう集まりは嫌いなんです。あなたもあんな奴には愛想笑いすらしなくていいです」
「あはは」
つい乾いた笑いが出た。
私はいずれは離婚することが決まっているから、この日一日くらい何を言われても耐えられる。でも、この人は親戚付き合いをしないでいいのだろうか。大きな家だから親戚の数も多いはず。会社を継ぐ鷹士さんとしてはまったく関わりを絶つのは難しいはず。
駆け落ちした両親の下で育った私には親戚付き合いなんてしたことないから、どういう程度の関わりなのか想像でしかないけれど。
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